江戸時代の貨幣にくわしくなるうんちく話
江戸時代には金貨と銀貨、それに銅銭の3種種類の貨幣が使われていました。
金貨というのはよく知られる「小判」のことで、これは主に江戸を中心とする東日本で使われ、銀貨は大阪を中心とする西日本で使われました。
銅貨は全国各地で使われ、日常生活でもっとも流通した貨幣です。
貨幣の材料である金属そのものに価値があり、それによって信用がなりたっていたので、現代のような紙幣は存在しませんでした。
265年間、物価はあまり変わらなかった!?
江戸時代には、現代ほどには物価変動はありませんでした。武士の給料は基本的には江戸時代を通じてあまり変わりませんでした。
200年前の先祖が「200石」と家禄(かろく)を与えられていれば、200年間ずっとおなじ石高であるのが普通でした。
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中核をなす人々の給与が変動しないので、庶民の収入にも大きな変化はありません。
そのため、物価変動は小さくなったそうです。しかし、まったく変化がなかったわけではありません。
江戸時代初期に比べて末期の方が当然物価は上がっており、賃金変動のなかった武士たちは、当然のことながら困窮しました。
▲江戸時代の通貨
貨幣の価値は時代とともに変わっていた!?
貨幣の価値が変わるのと合わせて、金・銀・銅の間の価値も変化します。そのため、金貨と銀貨の両替比率などが変動しました。
金と銀、銀と銅とを交換する場所が「両替商」です。今でいえば、銀行です。
金貨ばかりを持っていても、普段の買い物ができません。そこで銅銭にくずしてもらう必要があるので、両替商を頼ったのです。
その交換比率は時代によって変動しますが、幕府によって「相場」が決められていました。
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江戸は「金づかい」、大阪は「銀づかい」
江戸時代以前から、東日本では主に金貨が使われていて、大阪などの西日本では銀貨が使われていました。
江戸幕府はその習慣をそのまま生かしたので、わが国には金貨と銀貨の両方がでまわることになりました。
金貨だけ、銀貨だけという国が多い中で、江戸時代のわが国の貨幣制度は特殊だったわけです。
1両小判1枚で1年食べられた!?
現代の価値に換算すると1両がいくらになるのかは一概には言えません。
当時の感覚としては、1両あれば「一石」(いっこく)の米が買えたと言われます。
一石とはおよそ2.5俵、150kgで、一人の人が1年間に食べる米の量と言われていました。
現代なら、1kg500円として、150kg×500円=7.5万円ということになります。
ただ、当時の米価はずっと低かったので、それほどまでの価値はなかったと考えられます。
銀貨は重さで決まっていた
金貨の場合「1両小判」をベースに、その4分の1の「一分金」、さらにその4分の1の「1朱金」がありました。
銀貨はめかたをベースにしたため、「一分銀」「五匁銀」など、重さを表示した貨幣がいく種類かありました。
寛永通宝は400億枚!?
江戸時代の代表的な銭貨であった「寛永通宝」には、1枚1文の「一文銭」と4文の「四文銭」とがありました。
4文銭1枚で串団子1本程度の価値だったと言われますので、現代なら数十円といったところでしょうか。
時代劇の「銭形平次」で投げられていた一文銭は、5円〜10円程度のコインだったのでしょう。
もっともよく流通した貨幣であり、全国で400億枚もあったと言われています。
また、「天保通宝」は1両の500分の1程度の価値があり、明治時代の初期になってもまだ流通していたそうです。
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