江戸時代の身分制度である「士農工商」の序列は嘘だった!?
江戸時代には身分制度があり、大きな格差が存在したことはよく知られています。
一定の年齢以上の方は、社会科や日本史の授業で、「士農工商」という序列があり、士(武士)を頂点に、農(農業従事者)、工(工業従事者)、商(商業従事者)の順で身分が固定されていたと習ったはずです。
また、農民を卑屈にさせないために、「士」の次に「農」を置いたと教えられた人も多いことでしょう。
しかし、現在では「士農工商という身分制度があった」という説は否定されており、教科書にも載せられていません。
身分による格差があったこと自体は事実ですが、「士農工商」という序列はなかったのです。
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「士農工商」の意味は単なる職業分類のこと!?
中国で古くから使われていた言葉で、江戸時代にわが国で作られたものではありません。もともと身分制度を表していたわけではないのです。
職業は4つに分類される、というような意味からできた言葉で、江戸時代にも使われたことは確かですが、身分制度を表すものと解釈されたのは後年になってからのことです。
「農」は農民のことではなかった!?
身分制度の2番目と言われていた「農」は、実は百姓だけを指すものではありません。
都会(江戸)に住む者に対し、地方に住む者を「農」と呼び、農業従事者以外にも職人や漁師、海運業者などさまざまな職業の人が含まれていました。
「工」という概念そのものがなかった!?
現代では「工業」という言葉が当たり前のように使われていますが、家内制手工業しかなかった江戸時代には「工業」という概念がありませんでした。
都会でものづくりをする職人は「町人」と呼ばれており、「農」と「工」との間に身分差はありませんでした。
「商」が「士」の上にたつことも!?
商人はビジネスがうまくいけば、大きな財産を築くことができます。
江戸時代の半ばになると「富豪」となる商人も現れ、逆に財政的に困窮する大名や武士も出てきました。
その結果、武士が商人から金を借りるようになり、上下の関係が崩れるようなこともあったのです。
豊かな商人の中には、「扶持米」(ひちまい)と呼ばれる給料を大名からもらうようになる者、士分(武士の身分)を与えられる者などもいました。
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医者はやっぱり身分が高い!?
現代でも社会的身分の高い医者は、江戸時代においてもやはり高収入の職業でした。
身分制度により職業選択の自由が制限されていた時代ですが、医師については自由になることができ、優秀であれば藩主に召し抱えられて職人の子が医者になることもありました。
また、上級の武士以外は乗ることを許されていなかったカゴについても、医者は乗ることができました。
武士の貧富の差は一番激しかった!?
身分制度上、一番上にあったのが武士です。しかし、武士といっても大名から下級武士までランクは大きな開きがあります。
下級武士の場合、町人と同じレベルの生活水準しかなく、幕府や藩の財政が厳しく給料が低く抑えられた時代には、内職をせざるを得ない者もいました。
一方、上級の武士の場合、厠(トイレ)が畳敷きの広い部屋で、漆塗りの蓋をしてあるような豪勢な家に住む者もいたのです。
江戸時代は現代よりもはるかに大きな格差社会でしたが、一般に信じられているようなものとは少し異なっていました。
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