江戸時代の出産

江戸時代にはどのように出産をしていたのでしょうか?

江戸時代にはどのように出産をしていたのでしょうか?

現代のように医療施設が整っていなかった江戸時代において、出産は産婆の役目でした。

 

生まれそうになると、妊婦は産屋(うぶや)に移り、そこで女たちに助けられ勇気づけられながら出産をむかえたのです。そこには男の入る余地はありませんでした。

 

出産は不浄のもの!?

古くから「血」は汚れたものと考えられており、出血をともなう出産は江戸時代においても「不浄」と考えられていました。

 

そのため、家の外に設けられた「産屋」で生むのが一般的でした。地方都市などでは町に共同で使える産屋があり、陣痛が始まった女性はそこに移動して待ちます。

都会の場合、屋敷内の母屋から離れた場所に産屋が設けられることもあったようです。

 

次第にそうした習慣は薄れ、母屋の中に産室を設けるようになっていきました。

 

女たちの助け合いの場

出産には男性が立ちあうことはありません。周りの女性たちが力を合わせて手伝うのが一般的でした。

 

取り仕切るのは出産の専門家である産婆で、女性たちは産婆の指示でお湯を沸かしたり妊婦の体を支えたりしていました。

 

座ったまま出産するのが当たりまえ!?

現代では横になってすることが多いですが、江戸時代の出産は座位で行われていました。

 

産屋には天井から縄がぶら下がっており、妊婦はそれをつかんで座り、いきむのです。大便をするのと似たスタイルです。

 

ずっと同じ姿勢をつづけるのは辛いため、周りの女性たちが体を支えてやったり、壁に布団を立てて背もたれにすることもありました。

 

座ったまま産み、その後何日も座って過ごした!?

出産の後は、すぐに横にならずに数日間座ったまま過ごしたと言われています。

 

もちろん腰はすえるのですが、背中は倒さず布団や枕でななめにしたまま、上半身を半分起こして過ごすのです。

 

肉体の負担を軽くするためだったと考えられますが、実際に効果があったのかどうかは不明です。

 

胎盤は地面に埋められた!?

体内から排出された胎盤などは、土に埋めるのが一般的でした。それは父親の役目で、便所の前や産室の床下などに穴を掘って埋めました。

 

胎盤を埋めた場所を最初にまたいだ人のことを赤ん坊が嫌う、という迷信があり、大人はまたがないように気をつけたと言われています。

 

へその緒は大切に保管された!?

現代では、医学的な理由からもへその緒をとっておくようになっていますが、江戸時代においても、大切にされました。

 

大病を患ったときにはこれを煎じて飲むと効果があるという俗説もあり、大事にされていたようです。

 

生まれて間もない子どもはまだ人間ではなかった!?

江戸時代のころには、乳幼児の死亡率が極めて高かったため、親はいつでも子どもを亡くす覚悟を持っていたようです。

 

「7つまでは神の子」とも言われ、7才まで生きられるかどうかは運命にゆだねられると考えられていました。

 

江戸時代以前の平均寿命が短かったのは、乳幼児の死亡率が高いせいです。

 

「人生50年」と言われた時代ですが、もし現代並みの乳幼児死亡率であったなら、寿命はずっと長くなっていたはずです。

 

10代の少女の出産も当たり前

現代では十代で子を産む女性はそれほど多くはありませんが、江戸時代には12〜13才で結婚する女性も少なくはなく、初産の年齢は十代が普通でした。

 

まだ体が十分成熟する前に産むことも少なくはありませんでした。そのため、亡くなる母親も多かったのです。

 

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