江戸時代にはどのような食事をしていたのでしょうか
江戸時代の食事も、現代と同様、家庭によってその内容は大きく異っていたことでしょう。
裕福な家では美味しいものを毎日食べているでしょうし、貧しい家ではおかずのほとんどない食事だったでしょう。
ただ、江戸時代には現代とは違い肉を食べる習慣はほとんどなかったので、どこの家でも蛋白源はもっぱら魚や豆類でした。
また、士農工商の身分制度によって収入格差がありましたので、身分による食生活の違いもありました。
米は日本人の心〜といっても米ばかりでは寂しい下級武士たち
江戸時代の武士というのは将軍や大名から下級の藩士まで、かなり幅ひろい階級にわかれていました。
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当然のことながら、大名たちは裕福ですので豊かな食生活を送っていましたが、下級武士になれば収入は一般庶民と変わらず、かなり貧しい食事をとっていたようです。
幕府や藩からもらえる収入だけではまともな食事をとることができないため、多くの武士たちが広大な大名屋敷内に自家菜園を持ち野菜を育てていました。
畑でとれた野菜と古漬けのたくあんが毎日のおかずで、魚を食べられるのは月に数回程度だったようです。
例えば、ある下級藩士の子であった俳人の内藤鳴雪(ないとうせいめつ)は、魚が膳に上るのは、「1日と15日、28日の3回と決まっていた」と記しています。
このことからも分かるように、下級の武士たちはほとんど米と野菜ばかり食べていたようです。
商家の丁稚たちは漬物ばかり食べていた!?
江戸時代に書かれた「幕末百話」という本に、丁稚奉公をしていた人の食事の回想が描かれていますが、それによると、「朝は365日、毎日みそ汁だけ、昼は安い日に限って魚がつくことがあり、夜は漬物だけだった」とのことです。
現代では夕食がもっとも豪華なのが普通ですが、当時は夜になると明かりもなく早々に就寝したため、質素だったと考えられます。
落語の「味噌蔵」には、商家の番頭が主人の留守をいいことにどんちゃん騒ぎをする姿が描かれていますが、奉公している人たちの日常の食事はそれほど粗末だったのでしょう。
住み込みで働く丁稚たちにとって、商用で外出した時などに外で食べるそばや寿司などがとてつもない贅沢だったようですから、それは楽しいイベントだったに違いありません。
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白米を食べることができなかった農民たち
今も昔も農民は米を作っています。ところが、江戸時代の農民の多くは白米を食べることができませんでした。
現代のように農業が高度化されていませんので、大量に収穫はできません。
それゆえ収穫した米の大部分を年貢(税金)として供出しなければならず、自家用に食べられるお米があまり残らなかったのです。
白いご飯の食事というものは、お祭りなどのイベント時にしかとることはできませんでした。
そのため、農民にとっては、毎日白米を食べている江戸の町人たちはとても豊かに感じられていました。
買い取られる少女たちへの慰めの言葉は「白いおまんま」
>女衒(ぜげん)というのは女の子を買い取る商人のことです。全国の貧しい農家を訪ねて美人の娘を買い取るのが仕事です。
10才にもならない子どもを連れて行くのですが、その際に少女をなだめるために使われた常套句は、「白いまんまが毎日お腹いっぱい食べられるようになるよ」というものだったそうです。
農家の子どもたちにとって、白米を食べられる生活は「夢」のようなものだったのでしょう。
江戸の下級武士や町人たちは、白米以外のものをあまりとっていませんでした。
そのため栄養が偏り、脚気(かっけ)が流行したそうです。当時は、白米ばかり食べることでビタミンB1不足の状態になり、脚気になることは知られていませんでしたので、江戸の奇病として恐れられていました。
ただ、江戸生活で脚気になった人が、田舎生活をすると何故かすぐに治ることは知られていたようです。
その原因が白米にあることは、だいぶ後になるまでわかりませんでした。
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