江戸時代の年号

江戸時代の主な年号とさまざまな出来事

江戸時代の主な年号とさまざまな出来事

江戸時代には「江戸」という年号があったわけではありません。また、将軍が変わるたびに年号が変わるということもありませんでした。

 

古来よりわが国で使われている独自の紀年法である「和暦」は、天皇によって定められてきたものです。

 

現代では年号は天皇の即位とともに新しくなりますが、江戸時代以前には必ずしも即位と同時期ではありませんでした。

 

即位の際に変えられないこともありましたし、不吉なことがあったり、災害があったなどの理由で変えられることもありました。

 

江戸時代に使われた年号は、慶長、元和、寛永、慶安、明暦、延宝、天和、貞享、元禄、宝永、正徳、享保、延享、宝暦、安永、天明、寛政、享和、文化、文政、天保、嘉永、万延、文久、慶應の25号です。

 

この間、将軍は徳川家康から慶喜まで15人です。

 

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江戸の始まりは慶長(けいちょう)

江戸時代の始まりは1603年、徳川家康が江戸幕府を開いたこの年の年号は「慶長」(8年)です。

 

家康は2年後の慶長10年に息子の秀忠に将軍職を譲っています。

 

鎖国政策をとった幕府がオランダとの貿易を許可したのは慶長14年(1609年)、キリスト教を禁止したのは慶長18年(1613年)です。

 

大坂冬の陣によって、家康軍が大阪城を責めたのは慶長19年(1615年)になります。

 

家康没は元和2年

1615年に年号は元和(げんな)に変わり、この年、大坂夏の陣にて、家康、秀忠は豊臣を滅ぼしました。

 

それと同じ年に、武家諸法度(ぶけしょはっと)を発行し諸大名の力を抑え秩序を整えて、265年続く江戸時代の基礎を構築しました。

 

ここまで成し遂げた後、元和2年(1616年)に家康は亡くなりました。享年75才、当時としてはかなり長生きでした。

 

寛永年間は家光の時代

2代将軍秀忠は将軍となった後も父家康が実権を握っていたため、実際に権力を手にしたのは、家康が亡くなったあとから7年間だけでした。

 

元和9年(1623年)には、家光が3代将軍につき、次々と新しい政策を打ち出します。

 

年号が寛永に変わった1624年、スペイン船の来航を禁止します。寛永10年(1633年)には日本人の海外渡航も海外からの帰国も禁止してしまいます。

 

江戸時代はずっと鎖国していたわけではなく、この頃から外国との貿易ができなくなっていったのです。

 

翌寛永11年には長崎に出島をつくり、鎖国中の日本でただ一つの貿易港を設置します。

 

寛永12年位は武家諸法度を強化し、参勤交代制を制度化しました。よく知られる参勤交代は家康がつくったものではなく、3代将軍徳川家光の時代につくられたものです。

 

有名な島原の乱は、寛永14年(1637年)に起こりました。

 

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江戸時代には大火や天災もよくあった

明暦3年(1657年)には明暦の大火(めいれきのたいか)、天和2年(1682年)に江戸大火(八百屋お七の火事)が起こっていますが、江戸時代にはしばしば大きな火災が発生しています。

 

木造家屋ばかりで、しかも密集した長屋が多かったために、一度火災が発生すると大きな被害が出たのです。

 

宝永4年(1707年)には富士山が噴火、天明3年(1783年)には浅間山が大噴火を起こし2000人が死亡するという大惨事となりました。

 

享保17年(1732年)ころには享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)が発生し、1万人以上が餓死したと言われます。

 

天明3年にも天明の大飢饉が起こり、特に奥羽地方での死者が多かったとされます。

 

天保4年(1833年)ころには天保の大飢饉が起こり米の価格が暴騰します。大塩平八郎の乱が起こったのは、その4年後の天保8年(1837年)です。

 

ペリー来航から大政奉還まで

嘉永6年(1854年)にはアメリカ使節のペリーが浦賀に来航しました。

 

安政5年(1854年)には日米和親条約が締結され、下田、箱館を開港します。

 

勝海舟らが咸臨丸で太平洋を横断したのは万延元年(1860年)。この年、井伊直弼が桜田門外の変で殺害されました。

 

慶應2年に慶喜が第15代将軍につきますが、翌慶應3年(1867年)には大政奉還し権力を朝廷に返還らし、江戸時代は終わりを告げました。

 

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