徳川秀忠が三男坊なのに2代将軍になれた本当の理由とは?
江戸時代において、長男が跡目を継ぐというのが常識ですが、2代将軍である秀忠はは三男坊でした。
なぜ、長兄や次男坊ではなく、三男坊の秀忠が将軍職につくことが出来たのでしょうか?
そこには、家康を取り巻くさまざまな問題が原因としてあり、それらの複雑な事情により、彼は2代目将軍として江戸幕府のトップに立つことになったのです。
いったい、後継者を考える徳川家康の周辺で、どのようなことが起こったというのでしょうか?
長男信康に切腹を命じた家康
通説によると、長男信康の正室であり信長の娘である徳姫が、信康とその母(家康の正室)である築山殿が、当時信長と家康の敵であった武田側と内通しているとの密告を信長にしたようです。
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そのことを知った信長が、家康に二人の処刑を命じたのです。
家康は悩んだ末に、正室であった築山殿を殺害し、長男に切腹を命じました。
信康の妻である徳姫は信長の娘ですから、謀反の事実を父に伝えるというのは確かに考えられることです。
家康からすれば徳姫は信長の人質ですが、信長側からすれば徳川家の内情を探る密偵でもあったわけです。
たとえ、信長との同盟を守るためとはいえ、自分の正室と長男を殺害せざるを得なかった家康の心中はあまりにも辛いもであったことは容易に想像できます。
一方、この俗説とは別に、家康と信康の親子の不仲が原因だったという説もあります。
家康と信康の間に問題が起こり、家康は信長に相談したうえで自分の息子を殺害したという説です。
いずれにしても、徳川家長男は切腹により死去たことが、のちに三男坊である秀忠の2代目就任につながっていくわけです。
次男秀康が好きではなかった家康
家康の次男坊である秀康という人物は、生まれながらにして冷遇されていたようです。
秀康の母親は正室である築山殿の奥女中でしたが、家康の手が付いたことで身ごもってしまいました。
築山殿の機嫌を損ねることを恐れた家康によって、彼女は重臣の本田重次の下に預けられることになりました。
そのような経緯もあり、正室の奥女中の子供である秀康は生まれたあとも冷遇されることになります。
満3歳になるまで、父である家康と会うことは許されなかったようです。
加えて、秀康は生まれたとき双子だったという説もあるようです。
当時は双子というものは忌み嫌われていたため、一人はすぐなくなったと言われていますが、一説によるとある神社に預けられたとされています。
後の神官である永見貞愛がその人であるといわれています。
さらには秀康の容姿も嫌われる要因のひとつだったようです。
なまずの一種であるギギという魚に似ていることから、家康から於儀丸と呼ばれました。
自分の息子をそのように呼ぶのですから、相当に嫌っていたのでしょう。。
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一方で、秀康には意外な一面もありました。
関が原の戦いでは従軍はしませんでしたが、関東にとどまり上杉家や奥州の大名たちをけん制する大役をあずかっています。
家康は彼の統率力などを高く評価していたということかもしれません。
また、かなりのおしゃべり好きだったようですから、周りから愛され信頼を受ける人物だったのではないでしょうか。
その後、関が原の戦いが終わり家康から67万石を与えられ,次期将軍にという声もあったようですが、7年後に35歳という若さで梅毒でにより死去しています。
このように、長男である信康を切腹により失い、次男である秀康も失った家康が秀忠を2代目将軍としたのは、ある意味必然だったのです。
関ヶ原の戦いに遅刻してしまった秀忠
ある意味、棚ぼた式とも言えなくもない形で2代将軍となった秀忠ですが、実は西暦1600年9月15日天下分け目の関ヶ原の戦いに遅刻するという失態を演じています。
この時3万8千という大群を任せられた秀忠が遅刻してしまったことで、家康は激怒します。
秀忠はなぜ遅刻などしてしまったのでしょうか?
現代に生きる私たちは、歴史の学習を通して関が原の合戦は9月15日ということを知っています。
しかし、当時の彼らは誰一人として9月15日に戦いが起こるなどということを知りません。
つまり、9月15日を目指して出陣していったわけでなかったのです。
本来はもっと後に戦いが起こるはずだったのが、急に予定が変更され、家康から急いで来るように言わたが間に合わなかった、というのが真相のようです。
では、ほかの武将たちは間に合っているのになぜ秀忠だけ間に合わなかったのでしょうか?
このとき、秀忠はおそらく家康の命令だと思いますが、上田城にいる真田昌幸、幸村親子と戦うために寄り道をしています。
なお悪いことに悪天候のために、家康からの伝令も秀忠に届くまでに大幅に遅れます。
この時すでに秀忠は、真田昌幸の智略にはまり、7日間も足止めされた上に多くの犠牲者を出しています。
そんな戦いの途中にもかかわらず、家康から急いで来るように言われ、かなりの強行スケジュールで関が原に向かったようですが、悪天候のためにどうしても間に合わなかったようです。
関が原の合戦のあと秀忠は、怒りをかった家康と会うことを許されませんでした。
しかし、この時なんのおとがめもなかったことからすると、家康は本心から怒っていたのではないのかも知れません。
遅刻せずに集まってくれた他の大名の手前、合戦のすぐ後に会うということは立場上出来なかったのでしょう。
その何年か前にも家康は真田親子と対戦していますが、少人数の真田に苦戦を余儀なくされています。
そのため、真田軍と戦っていて遅刻した秀忠のことを、それほどまでに根に持つことはなかったのでしょう。
だからこそ、家康は最終的に秀忠を後継者に選んだのだと思います
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