徳川家継〜4歳の最年少将軍

徳川家継〜最年少将軍はどのような経緯で誕生したのか?

徳川家継〜最年少将軍はどのような経緯で誕生したのか?

家継は徳川歴代将軍の中でも最年少の、わずか4歳足らずで将軍に任命され、8歳で短い生涯を終えました。

 

そんな小さな子供を将軍にせざるを得なかった当時の江戸幕府は、どのような状態だったのでしょうか。

 

また幼い将軍と側近たちによって、どのような政治がおこなわれていたのでしょうか?

 

その歴史的真実に迫ってみたいと思います。

 

なぜ徳川家継は4歳の幼少の身で将軍になったのか?

4歳の幼い家継が将軍となり、その後7歳で婚約するいう、幕府にとってまさに異常事態ともいえる状況でした。

 

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家継が将軍を引き継ぐことになったきっかけは、父である家宣が病死です。

 

家宣には、娘である豊姫、そして息子である家千代、大五郎、虎吉がいましたが、不幸にもそれらの子供は次々と亡くなってしまいます。

 

必然的に幼い鍋松(家継)が将軍候補となりますが、家宣は反対だったようです。

 

「次期将軍は尾張の徳川吉通にするように、その後の処遇は吉通に任せるように」との遺言まで残したようです。

 

しかし、尾張から将軍家を迎えることになれば、もちろん家臣たちもやってくるわけですから、今までの重臣たちの立場がどうなるかわかりません。

 

そこで側用人の間部詮房、顧問格の新井白石らが反対し、自分たちが後見人となり鍋松を将軍にと強行したようです。

 

もちろん他の重臣たちの中にも反対したものはいたようですが、もし鍋松の身に何かあったときには尾張から将軍に迎えればよいとかなり強引に説得したようです。

 

このような背景があり、家宣の意思とは裏腹に、幼い家継が将軍の地位につくことになりました。

 

母月光院や側用人間部詮房、新井白石が行った側近政治

家継の父である家宣は、将軍になったときすでに48歳でした。

 

元々体が弱かったこともあり子宝には恵まれず、子供が生まれても次々と早死にしてしまいました。

 

こうして家継が将軍になるわけですが、4歳の幼子に政治が行えるはずもなく、実質的には側近である詮房と新井白石が政治を行うことになります。いわゆる側近政治と呼ばれる形態です。

 

詮房はもともと猿楽師(能)でしたし、白石は一介の旗本だったものが学者としての才能を買われて家宣に徴用されるようになりました。

 

家宣の子供である家継が将軍として座している限りは、自分たちが幕府を守らなければならないという強い意思があったのでしょう。

 

彼らは、譜代大名たちの権力を少しづつ弱め、権力を幕府に集中させていきました。

 

そのため、当時力を持ちつつあった大奥も、譜代大名に取り入って政治を操るということが出来なくなっていきます。

 

その結果、家継の母である月光院が一気に大奥で力を持つに至ります。

 

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家継の世話役として大奥への出入りを許されていいた詮房は、大奥の実力者となった月光院といっしょにくつろぐことが多くなり、家継から詮房はまるで将軍のようだといわれてしまうこともあったようです。

 

そのような状況に、大名たちや大奥たちの不満は募っていきます。

 

月光院の右腕ともいえる絵島が歌舞伎役者と密通したというスキャンダルがながれたことがきっかけで、大奥での権力争いが勃発します。

 

このころから、詮房と白石による側近政治がだんだんと勢いを失って行くことになります。

 

家継が8歳で亡くなったときは、一気に形勢が逆転し二人はあっけなく失脚することになります。

 

家継が7歳で縁組が決まった理由とは?

家継が将軍になるまでには、裏で世継ぎ争いが勃発していました。

 

家宣が将軍になったとき48歳と高齢で、、正室である熈子(天英院)もすでに30代を過ぎていました。

 

しかし、2人の子供は早くに亡くなっていました。

 

そんな状況であっても、将軍になった今、家宣は世継ぎをもうける必要に迫られます。

 

その為には側室が必要でした。そんなときに容姿端麗なお喜世(月光院)を家宣は見初め寵愛します。

 

正室である熈子は後水尾天皇の孫という高貴な家柄の出であるのに対して、お喜世は身分が低かったことで熈子とは犬猿の仲だったようです。

 

お喜世の子どもに世継ぎをさせたくない熈子は、お須免という女中を使って世継ぎとなる男子を生ませることに成功します。

 

しかし、この女中の子供大五郎は原因不明の病気で亡くなります。

 

その後に生まれた虎吉さえも生後2ヶ月で亡くなってしまいます。

 

このとき、お喜世が生んだ鍋松(家継)を世継ぎにするために、彼女が毒殺したのではないかという噂も流れました。

 

真偽のほどはともかく、これだけ家宣の子が次々に亡くなると、そういった噂が流れるのも致し方のないところかも知れません。

 

家宣が亡くなった後、お喜世の子である鍋松が将軍になります。正式な世継ぎという意味で家継と名前を改めています。

 

まさにこのときの世継ぎ争い争いを象徴するかのような名前です。

 

家継の母であるお喜世この時点で月光院と名前を変えていますが、彼女は後水尾天皇の孫であった(天英院)と違い、もともとは低い身分の出でした。

 

そのため、家継の地位や権力を確実なものにするために霊元天皇の皇女である八十宮吉子内親王と婚約させます。

 

このとき内親王はなんと生後一ヶ月でした。なんとも非常識な婚約ですが、実は京都では内親王の父である霊元法皇と天英院の父、近衛基熙が指導権争いをしていました。

 

そのため両者の利害関係が一致した結果、このようなありえない婚約が成立したのでしょう。

 

このあと8歳で家継が亡くなりますので、実際に結婚まではいたりませんでした。

 

このように、幼い将軍が誕生し7歳で婚約までした背景には、まさにドラマのようドロドロした事情があったようです。

 

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