徳川家重はなぜ江戸市民から「小便公方」と呼ばれたのか?
徳川家重の父は、一度傾きかけた幕府の財政を自身の改革によってしっかりと立て直した名君徳川吉宗です。
その後、長男の家重は順当に将軍職を引き継ぐことになります。
しかし、そんな偉大な父親の跡を継いだ家重ですが、脳性麻痺による言語があり、庶民からはある理由から「小便公方」と揶揄されました。
その実像に迫ってみると、意外なことに彼が将軍職にあった16年間は、幕府の政治が安定していたようです。
実際の徳川家重はどんな人物だったのでしょうか?
脳性麻痺があり言語のはっきりしなかった家重
徳川幕府の歴代将軍の肖像画の中で、一際目立つ肖像画があります。
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その表情はまるで「ひょっとこ」のような表情をしています。
これは、脳性まひによるものだといわれています。「徳川実紀」によれば、家重は病気がちでしゃべっていることも何を言っているのか、家臣ですら聞き取ることが困難だったようです。
また、来日したオランダ人ティチングの「日本風図誌」にも、彼の話す言葉は合図のようなものだったとあります。
こうした文献から察すると、確かに徳川家重は脳性まひだった可能性が高いようです。
また、家重の死後に遺体を確認したところ、奥歯が滑らかに磨り減っていたそうです。
アテトーゼ・タイプの脳性まひの人は絶えず歯ぎしりをしたりするため、奥歯が磨り減る傾向にあるようです。
徳川吉宗には他にも息子がいて、文武両道に優れたものもいました。
それなのに、なぜ家重が将軍職に就くことが出来たのでしょうか?
これには諸説あるようですが、吉宗が隠居した後も実権を握りやすくするために、あえて家重を将軍職にしたという説が有力です。
担ぐ神輿は軽い方がいいと吉宗は考えたのでしょうか。
脳性まひの人は運動神経がうまく働かないだけで、知能は正常であることが多いようです。
おそらく徳川家重も、知能的には正常だったに違いありません。
家重の発する言葉を唯一聞き取ることが出来たのが大岡忠光だといわれています。
家臣として長い時間きちんと向き合っていることで、家重の言葉を理解することが出来るようになったのでしょう。
おそらくそうした家臣による助けもあって、彼の知能が正常であることが証明され、将軍職に任命されたのでしょう。
徳川家重の知能が正常である証拠に、将軍になった後も将棋がとても得意でよく指していたようです。
また、将棋についての書を記していたりもしたようです。
晩年には遺言の中で田沼意次の能力の高さを見抜き、自分が死んだ後も彼を取り立てるように書き残しています。
徳川家重は、ただ単に障害のために自分の意思をうまく伝えられなかっただけであって、彼の行った政治そのものを見ると、むしろ知能は正常どころかかなり優秀であったと言えるのではないでしょうか。」
また、それ以上に障害のある家重を自分の後継者として将軍にした吉宗の度量の大きさにも驚かされますね。
父吉宗の側近である松平乗邑を罷免した本当の理由
松平乗邑といえば吉宗の側近中の側近ですが、吉宗が隠居し家重が将軍職についたとたん、彼は罷免されてしまいました。
徳川実紀では、罷免の理由がはっきり書かれていませんが、おそらく理由のひとつとして、吉宗の後継者問題が持ち上がった時のことが大きくかかわっているようです。
徳川家重はもともと障害を持っていましたので、 次期将軍にはふさわしくないとして弟の宗武を将軍にという話が持ち上がっていたことがあります。
その時に宗武を強く勧めていたのが、松平乗邑だったようです。
家重ももちろんそのことを知っていました。一説には、家重を廃嫡しようと画策していたとき、家重を小菅御殿に監禁していたこともあるようです。
そのようなしがらみから、家重が将軍職に就いたとき、彼は真っ先に罷免されてしまったのでしょう。
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しかし、徳川吉宗が遂行していた享保の改革において、松平乗邑は大きな影響力を持っていました。
家重が将軍になったとはいえ、まだこのときには吉宗も幕府に相当な力を持っていました。
松平乗邑を罷免するということは、享保の改革の大きな妨げになりかねません。
そのため、吉宗が家重の思い通りに松平乗邑の罷免をすんなりと認めるとは考えにくいところです。
実は、このときすでに享保の改革は限界が来ていたようです。
幕府の財政はもちろん潤ったのですが、一般庶民や農民たちの苛立ちは限界に来ていました。
飢饉なども重なったこともありますが、あちこちで一揆が起こるようになりました。
そういったこともあり、吉宗の時代に大いに権力を振るっていた松平乗邑を罷免されることになり、家重自身が新たな改革を始めることになります。
財政に予算制度を取り入れたり、検査機関を設けたりして、かなりのテコ入れをしています。
松平乗邑を罷免したからこそ、そういった思い切ったテコ入れが出来たに違いありません。
徳川家重が実は女性だったという珍説
家重は一般庶民から「小便公方」と呼ばれていました。
それは、江戸城から上野寛永寺までの道中に、わずか数キロの間に23箇所ものトイレを設置させていたからです。
なぜ彼はこれほどのトイレを作らせたのでしょうか?
頻尿であったことは推察できますが、一般的に男性よりも女性のほうがトイレに行く間隔が短いといわれています。
そのため、徳川家重は女性だったのではないかという珍説が生まれています。
当時、家重の小便を入れるための筒を持つ役人もいたようです。
家重の死因は、尿道感染や尿毒症だったと言われていますが、これも女性に多い病気です。
現代になって歴代将軍の遺骨調査が行われた際、興味深い結果が出ました。
徳川家重の頭蓋骨や骨盤の形はまるで女性のような形だそうです。
女性と男性の骨盤は明らかに違うので、女性であった可能性も十分あるといえるかもしれません。
ただし、DNA鑑定などはしていなかったので、信憑性にかけることは否めません。
家臣の前でほとんど言葉を発したことがなかった家重ですが、それは言語障害があるからではなく、女性の声と悟られないようにするためではないかという説もあります。
とはいえ、遺骨調査した際に歯が異常に磨り減っていることが確認されていますので、彼に脳性まひによる言語障害があったことは事実でしょう。
現代において家重が男性だったのか女性だったのかを証明するすべはありませんが、徳川歴代将軍のなかに女性がいたかもしれないと考えてみるのも、ある意味ロマンがあって興味深いことではないでしょうか。
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