徳川家定

徳川家定は暗殺されたという噂の真相を考えてみる

徳川家定は本当に暗殺されてしまったのだろうか?

江戸時代に暗愚(道理に暗くおろかなこと)という理由で、殿様が家臣に殺されるということはよくあったようです。

 

幕府には内々に病死として届けられ、公にならないようにされていたようです。

 

では、江戸幕府13代将軍だった徳川家定が実は暗殺されていたという噂は、本当なのでしょうか?

 

徳川家定の命とされる一橋派一掃の翌日という絶妙なタイミングで、徳川家定は亡くなりました。

 

タイミングがタイミングだけに、暗殺の噂が亡くなった直後からまことしやかに大奥でささやかれるようになったようです。

 

さらに、最近見つかった徳川家定の歯形を、注意深く調べた結果も大変興味深いものでした。

 

異常なほどに歯形がもろく崩れているということから、ヒ素による毒殺の可能性もなきにしもあらずとのことです。

 

家定の亡くなった状態について、当時の担当医が「医学的見地から見て、毒殺の可能性が高い」と書き残していることも、家定暗殺の説を裏付けています。

 

一体だれがなんの目的で暗殺を?と多くの人が疑問をいだくに違いありません。

 

ここでは、徳川家定の死の舞台背景となった、当時の状況について詳しく考えてみたいと思います。

 

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徳川家定の死の直前における社会的状況

徳川家定は二人の正室に先立たれ、三人目の正室である篤姫や側室との間に子宝に恵まれることはありませんでした。

 

また、黒船来航の直後に将軍となりますが、幼少から身体が弱く、一説では脳性麻痺だったとも言われています。

 

黒船来航後、日本は日米和親条約締結を余儀なくされる危機的な状況でしたが、定家はまともに将軍職が務まらないような状況になっていました。

 

そういった状況を憂慮した大名たちの間で、在命中から次期将軍を巡っての争いがありました。

 

一橋派と南紀派による激しい世継ぎ争いと篤姫

島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派は、斉昭の実子の一橋慶喜(徳川慶喜)の擁立に動き、老中である阿部正弘もこれに加わります。

 

井伊直弼など保守的な大名や大奥といった南紀派は、家定の血筋が近い従弟である紀州藩主の徳川慶福(後の徳川家茂)を推し、激しく争っていました。

 

この状況に加えて、薩摩藩から輿入れした篤姫は、養父の島津成彬(なりあきら)から、慶喜の将軍擁立に向けて努力して欲しいと頼まれていたことも興味深い点です。

 

そして、篤姫には毎月高額の「御化粧料」が薩摩から支給されています。

 

御台所として、不自由のない生活が保障されていたはずなのに、なぜこのような高額な支給があったのでしょうか。

 

この魔訶不可思議な資金の流れは、将軍家を転覆させるための工作資金だったとの見方もあります。

 

井伊直弼が大老職に就任と直後の家定の死

そんな折、松平忠固や紀州藩付家老である水野忠央ら南紀派の政治工作により、安政4年老中阿部正弘の死後、井伊直弼が大老職に就任しました。

 

さらに、それまで表舞台にほとんど出なかった徳川家定が、安政5年6月25日(1858年)に諸大名を招集して「慶福を将軍継嗣にする」と伝え、続いて7月5日、一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せます。

 

これは、徳川家定が将軍らしい行動を見せた、最初で最後の機会となってしまいました。

 

そして、その翌日である7月6日に徳川家定は35歳の若さで急死してしまったのです。

 

水戸藩主である徳川斉昭による恨み説

 

あまりの家定の絶妙なタイミングでの死に、一橋派が奥医師・岡櫟仙院を使って家定を毒殺したのではないか、とすぐに噂が流れました。

 

その証拠として、奥女中の藤波が「水戸・尾張・一橋・越前松平家などの共謀によって将軍が毒殺された」と家定の亡くなった翌日に書かれたとされる手紙があるという。

 

慶喜の父である徳川斉昭が、将軍継嗣に彼の七男であり聡明さで知られた慶喜ではなく、慶福を指名した家定に恨みを持ったともいわれています。

 

しかしその一方で、徳川斉昭が大奥で嫌われていたために、そうした噂を流されたという見方もあります。

 

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本当の黒幕は井伊直弼だった!?

また、井伊直弼など南紀派の人の意見に流されやすい家定に、意見を覆されないように家定を消したという見方もあります。

 

そして、慶喜派の粛清が始まります。豪腕で知られる直弼は、目的を達成するためには手段を選ばず、家定よりもわずか13歳に過ぎない慶福の方が利用しやすいと考えたのかもしれません。

 

井伊直弼ら幕府は家定の死をひた隠しにして、発表したのは1ヵ月後の8月8日でした。

 

さらに直弼の疑惑が深まる状況です。『徳川実紀』の8月8日の条では、「公方様御不例。御養生かなえられず、今巳の上刻、崩御あそばされそうろう」と書かれています。

 

前後の出来事やそれを実行できる立場という点でも、井伊直弼は一番疑わしい人物ともいえるかもしれません。

 

篤姫が夫の家定を毒殺したという噂の真相

篤姫は養父の密命である「次期将軍に、一橋派の慶喜公の推挙を家定公に進言する」に従って、多大の努力をしたことでしょう。

 

輿入れそのものの目的が慶喜の将軍擁立だったのかもしれない、という見方もあります。

 

しかし、家定は紀伊派の慶福を次期将軍に推挙してしまいました。

 

篤姫派は自らの密命が成就しなかったので、もはや用無しの夫を毒殺したのではないかという、篤姫による将軍毒殺説も浮上しています。

 

家定暗殺の真相は結局は闇の中

徳川家定暗殺計画の黒幕は井伊直弼や徳川斉昭だったという説は、一橋派と南紀派の中傷合戦の延長だったのではないかという見方もあります。

 

また、篤姫による暗殺説に関しても、その後の篤姫の生涯や人物像を見ると信憑性にかけるものがあります。

 

もし、彼女が将軍の暗殺を実行するにしても、あえて自らの危険を冒してまで実行に移すだけの利益に欠ける部分も否めません。

 

現に徳川軍が官軍との戦いに連敗して、徳川家の存続も危ぶまれた際、実家の島津家から天璋院(篤姫)を引き取りたいと申し出がありました。

 

しかし、これを彼女はきっぱりと断っています。

 

1年7か月足らずの短い結婚生活でしたが、「自分は徳川の人間である」という毅然とした態度から、徳川に骨を埋めるつもりで、嫁入りしたという気構えが見て取れます。

 

そんな彼女が夫である家定を暗殺するでしょうか?篤姫が暗殺に関与したという説は、やはり説得力に欠けるようです。

 

表向きでは、徳川家定の死因は持病の脚気の悪化や当時流行していたコレラによるものとされています。

 

とはいえ、さまざまな状況証拠や当時の幕府の状況を考えると、将軍家定は暗殺されたのではないかという疑惑が残るのは事実です。

 

しかし、暗殺だとする決定的な証拠に欠けるのも、また事実です。

 

今となっては「真実は闇の中」と言わざる得ないのかもしれません。

 

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