徳川綱吉 名君

徳川綱吉は犬公方のバカ殿ではなく本当は名君だった?

徳川綱吉は犬公方のバカ殿ではなく本当は名君だった?

5代将軍徳川綱吉というと、誰でもすぐ頭に思いに浮かぶのが「生類憐みの令」だと思います。

 

明らかに行きで過で異常な法令であると、多くの人が思っていることと思います。

 

動物を殺傷したらその人間が処刑されてしまったりといった部分に、どうしてもフォーカスしがちです。

 

しかし、いつの時代でもそうですが、スキャンダル的なことは尾ひれがついて大げさな形で広まってしまったりします。

 

真の姿というものは、意外にも一部の人にしか知られていないなどということも往々にしてあります。

 

では、徳川綱吉は実際にはどのような人物だったのでしょうか。その真実に迫ってみたいと思います。

 

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切り捨て御免の風潮を変えようとした綱吉

江戸時代の武士の特権として「切り捨て御免」というものがあったということは、誰でも一度は耳にしたことがあると思います。

 

この綱吉の時代、実はちょうど微妙な時代だったようです。

 

戦国の世から平和な世の中になり、必要以上に武士と商人、農民との身分さを意識するようになったのかも知れません。

 

戦国の世であれば、武士が体を張って戦いお国の農民たちを守るというイメージがありましたが、平和な時代になり武士の必要性が揺らいでしまったようです。

 

必要性がなくなったとはいえ、武士はもともとプライドが高いですから、農民や町人から無礼を受けることは許しがたいことだったのでしょう。

 

その結果、「切り捨て御免」という風潮が生まれたようです。

 

武士が身分的に上位にいるという認識が揺らいでしまうと、幕府自体の存続が危うくなってしまう可能性があります。

 

そうならないために、武士の中には「切り捨て御免」という風潮は武士の地位を守るために必要不可欠なものであると考える人も多かったようです。

 

とはいえ、戦いの場をなくした武士たちがたむろし、人を切ったり、犬を切って食べたりという行為が横行するようになり、それが目に余るような状況になっていました。

 

農民や町民たちにしてみれば、武士の機嫌を損ねただけで理不尽にも斬って捨てられたのでは、たまったものではありません。

 

また、こうした命を軽視する風潮は武士の社会だけにあったわけではなく、農民のなかでも農作物を盗んだだけで殺されてしまうなんてことも実際にあったようです。

 

命を軽視し、暴力で物事を解決するという傾向が当時の江戸の町には行き渡っていたようです。

 

そのような風潮を見かねた綱吉は、銃などの武器を登録制にし、国家として暴力に対する徹底的な管理をしようと試みました。

 

そして、武士を単なる戦士としてではなく、現代社会における官僚のような立場へと変化させていきました。

 

力ではなく能力のあるものを積極的に雇い、多くの武士たちに目標を持たせることに成功しました。

 

まさに、文武両道を大いに奨励するようになったわけです。

 

実際に、各地で行いの悪い代官の8割を更迭したり、大名であっても問題のあるものは改易や減封にしました。

 

この改革は徐々に成功を納めるかに思えましたが、そんなときに「忠臣蔵」の事件が起こります。

 

浅野内匠頭が殿中で刀を抜いて処罰され切腹となったことをきっかけに、その裁定に不服な47士が吉良上野介を討ち取り主君の無念を晴らした事件です。

 

武士として、主君に忠義を果たす行為として当時は大いに湧き上がったようです。

 

今の時代でこのような事件が起こったならば、政治の不満を暴力で晴らす大変なテロ行為ということになります。

 

しかし、当時の武士たちの中にはこれらの赤穂浪士を英雄視するものも多かったようです。

 

綱吉は、彼らを単なる犯罪者として扱うのではなく、最終的に彼らの武士としての顔を立て切腹を命じます。

 

武士としてのプライドを尊重しつつ、暴力行為に対しては幕府として毅然とした態度をはっきりと示したことになります。

 

このような殺傷を良しとしない綱吉の考えが、次第に浸透していき、切り捨て御免という風潮は徐々に収まっていきました。

 

そして、現代で当たり前となった、法治国家の基礎を綱吉は築いて行くことになったのです。

 

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教科書での綱吉の評価が180度変わった?

私たちが知っている綱吉は、犬公方と呼ばれバカ殿というイメージを持っている人も少なくないでしょう。

 

かつては学校の教科書でも、綱吉の行った政治を否定的に書かれることが一般的でした。

 

しかし、近頃はこの流れが大きく変わり、教科書内において綱吉に対する評価が180度変わってきつつあるのです。

 

そもそも悪法と考えられていた「生類憐みの令」の本当の目的は何だったのでしょうか?

 

かつての教科書においては、綱吉が生類憐みの令を出すことになったきっかけとして、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正のアドバイスがクローズアップされていました。

 

つまり、綱吉が子宝に恵まれないのは江戸の町で殺生が行われているからであり、それをやめれば世継ぎが出来るとの進言に従い犬を手厚く扱ったというお話です。

 

その結果、多くの江戸の町民が苦しむことになったと多くの教科書に書かれていました。

 

ところが、最近の教科書では、綱吉に対する記述が根本から変化してきており、彼の政治において名君であったことをクローズアップするようになりました。。

 

綱吉に謁見したドイツ人ケンベルの手記によると「綱吉は卓越した主君である。彼の元で全国民が完全に調和して生活している。生活習慣や芸術・道徳の面で、あらゆる国の人々を凌駕している」と書かれています。

 

そもそも生類憐みの令というのは、ひとつの法律ではなかなか守られなかったために135回も出されたお触れの総称です。

 

では、最初のお触れはどのようなものだったのでしょうか?

 

それは「忠孝に励み、兄弟、親戚が仲良く暮らし、召使まで憐れみなさい」というものです。

 

あれ!?と思われた方も多いののではないでしょうか。そうなんです、彼の目指していた社会は、命を軽く扱う社会を変えて平和に共存する社会を作ることだったのです。

 

当時の社会は、犬を飼っても簡単に捨てる人も多く野犬が増えて人々が襲われることもありました。

 

そのために犬などの動物の登録をさせて、人々の生活を守るとともに動物愛護の精神も植えつけようとしていたようです。

 

確かに彼は目指した理想を追い求めるあまり行き過ぎた面もあったようです。

 

しかし、現代の日本人が外国に比べ治安が良いことや平和を好む国民性などは、この綱吉が基礎を築いたとも言われています。

 

綱吉の死後、多くの法律は破棄されましたが、動物愛護の法律やお年寄りを敬う法律などはそのまま引き継がれました。

 

現代に至るまで日本人の心の中には、その綱吉の精神が脈々と生き続けているのかもしれませんね。

 

 

綱吉は身長124cmの小人症だった?

いろいろと説はあるようですが、綱吉の身長は124cmで小人症だったという説があります。

 

大樹寺にある歴代将軍の位牌の大きさが当時の将軍の身長と同じ大きさであるといわれています。

 

その位牌の大きさが綱吉の場合124cmしかないのです。

 

大樹寺にある位牌の大きさが当時の将軍たちの身長と同じであるという説の根拠は、現代になって行われた発掘調査にる歴代将軍の遺骨の実測です。

 

これらの調査により、秀忠、家宣、家重、家慶、家茂の身長がわかっています。

 

発掘調査による歴代将軍たちの身長は、位牌の大きさと比べるとその誤差は大きくても5センチしかありません。

 

誤差といっても、遺骨の身長は死んだ後に収縮した可能性もありますので、ほぼ位牌の高さが身長であったと思われます。

 

しかし、興味深いのは綱吉の身長については触れられている文献がないことです。

 

権力によってそのコンプレックスである身長について触れた文献を抹殺した可能性もありますが、天下の将軍が小人症であるという事実がまったく記録に残っていないというのも不思議な話です。

 

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