江戸時代の刑罰

江戸時代の代表的な刑罰にはどのようなものがあったのか?

江戸時代の代表的な刑罰にはどのようなものがあったのか?

現代でこそ、刑法があり裁判所があって弁護士がいますので、犯罪に対しては一定の公平性が保証された刑罰が与えられます。

 

しかし、江戸時代にはまだそうした制度は整っていません。

 

当然ながら「三権分立」という考え方もなく、司法も立法も行政も武士がすべて取り仕切っていました。

 

江戸時代の初期までは刑罰に関する目安も確立されていなかったために、さばく人や時期、地域によっても、その重さが異なってしまっていました。

 

1747年(寛保2年)に「公事方御定書」が制定され刑罰についての公平性が確立しましたが、この「刑法」を知っていたのは奉行所だけでした。

 

一般の人々は、どんな罪を犯すとどれほどの刑に処せられるのかを知ることはできなかったのです。

 

うわさ話によって「十両盗めば死罪」というような情報を知る程度でしかありませんでした。

 

死刑になっても切腹できるのは武士だけ!?

江戸時代には、刑罰は「犯罪行為」によってのみ決まるのではなく、身分によって異なりました。

 

例えば、死刑の場合、斬首や切腹などの処罰法がありますが、切腹を命ぜられるのは武士に限られていました。

 

身分の高い武士には自らをさばく高い能力があると考えられていたので、切腹が許されていたのです。

 

死刑の方法にもいろいろ

江戸時代の死刑にはさまざまな方法があり、切腹の他、下手人(げしゅにん)、死罪、斬罪、獄門(ごくもん)、火罪(かざい)、磔(はりつけ)などがありました。

 

下手人とは牢の中で刀で首を切断するものです。斬罪は武士に適用された斬首刑になります。

 

死罪も斬首刑ですが、屋敷や財産を没収されたり、死体を試し切りに使われたりするなどさらに厳しい刑罰です。

 

切腹は武士が脇刺しの刃を自分の腹につきたて、介錯人が大刀で首をはねるものです。

 

獄門は、市中を引きまわされたのちに斬首されます。小塚原か鈴ヶ森の刑場に首がさらされました。

 

火罪は放火犯に適用された刑罰で、柱に縛り付けられたうえで焼き殺すものです。

 

磔(はりつけ)は、刑場の柱にはりつけた上で、槍で突き刺して絶命させます。

 

公開処刑には大勢の見物客がいた!?

江戸時代には、死罪や磔などの処刑は一般の人々に公開されたため、大勢の見物人が見届けていました。

 

現代的な感覚ではとても見られるものではありませんが、当時はこうしたものを見ることも一種の娯楽のようなものだったのかも知れません。

 

斬首刑の場合、地面に穴を掘り、死刑囚を座らせて頭をその上にうつむきに置かせます。

 

執行人はクビに狙いを定めて、一気に刀を振り落とし、一振りで切り落とします。穴を掘るのは、血を受け止めるためです。

 

落とした首はすぐに拾い上げられ、立ち合いの役人によって検分されます。こうした一連の流れを、多くの人が見届けていたのです。

 

追放、遠島などの罰もありました

死刑より少し軽いのが追放で、奄美大島や伊豆七島などの島に追放となるのが遠島です。

 

島では牢に閉じ込められるわけではありませんが、極貧の生活を強いられます。

 

居住地や一定の地域から追い出されるのが、「追放」という刑罰です。

 

たとえば、「江戸十里四方払」(えどじゅうりしほうばらい)というのは、20キロ圏外への追放の刑です。

 

刺青も刑罰だった!?

窃盗罪などの罪人に対しては、一定の刑罰に加えて刺青をほどこしていました。

 

消すことができないため、犯罪人であることの証となります。「刺青3回で死罪」というようなルールもありました。

 

江戸時代には、この他、財産を没収したり、罰金刑を与えたり、武士の場合であれば家名を断絶されたりというものなどもありました。

 

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