徳川慶喜が将軍になりたくなかった本当の理由
徳川家茂が亡くなったあと、徳川慶喜がすんなり将軍になったように思われていますが、実は慶喜は将軍職に就くことを拒み続け、その結果として将軍職が4ヶ月空位となった期間があります。
老中の板倉勝静や小笠原長行などが、次期将軍の後継にと慶喜を推しましたが、彼は頑なに拒んでいたのです。
何度かの要請ののち、ようやく8月20日に徳川宗家だけは相続することにはなりました。
しかし、その際にも将軍就任だけはずっと固辞していたのです。
いったいなぜここまでして慶喜は将軍になりたくなかったのでしょうか?
その思惑や真相について探ってみたいと思います。
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拒んだのは将軍就任反対意見を抑えるための政略?
まずは、当時の状況を考えてみましょう。
徳川慶喜の将軍就任に関して、実は出身藩である水戸藩の反対意見が強くありました。
さらに幕府内では大奥が田安亀之助を推挙し、多くの幕臣までも慶喜後継に反対していたという事実があります。
こうした徳川慶喜の将軍就任に対する反対意見の多い中、もしそのままあっさりと将軍就任を受けいれていたら、その後の舵取りが難しかったであろうことは容易に想像がつきます。
そのため、諸侯の推薦によって将軍に就任することによって、将軍としての権威を高め、この難局を乗り切ろうとそういった「政略」を用いたのかもしれません。
慶喜の思惑はともあれ、周囲が粘り強く説得を続け、いわば恩を売った形で徳川慶喜はようやく12月5日に将軍宣下となり、第15代将軍に就任することになりました。
こうした形で徳川慶喜は将軍就任となり、会津藩・桑名藩の支持の下、朝廷と密接な連携を行うことになりました。
そのため、徳川慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣も上京させて実質的に畿内にて幕府政権運営を行いました。
そうして、長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣とも和解し「慶応の改革」を推進することになります。
大政奉還の裏にあった慶喜のしたたかな策略
薩摩藩と長州藩が武力討幕を行うことを予期した徳川慶喜は、土佐脱藩浪士の坂本龍馬や後藤象二郎が提唱した大政奉還の建白書を受け取り、1867年10月13日に大政奉還を発表しました。
そうして1867年10月14日明治天皇に政権返上を勅許されます。
慶喜は当時の幕府に行政能力がないと考え、大政奉還後も将軍職そのものは辞任していません。
討幕派の機先を制し、討幕の名目を奪う狙いがあったことがうかがえます。
しかしその後、武力による討幕をもくろむ薩摩藩と長州藩は10月14日に秘密裏に討幕の密勅を受け、大規模な軍事動員を開始し始めます。
慶喜はこの動きを制するために、征夷大将軍の辞職を10月24日に朝廷に申し出ることになります。
当時の幕府は、朝廷に力がないことを見抜いていました。
形式的に政権返上を行っても、公家衆や諸藩を圧倒する力を持った徳川家が天皇の下の新政府に参画し、政治的な実権を保ち続けられると考えていたのかもしれません。
現に朝廷からは条件付きながらも、緊急政務の処理が徳川慶喜に引き続き委任され、将軍職も一時的に従来通りとされています。
実質的に慶喜による政権掌握が続くことになり、幕府の思惑通りとなったのです。
慶喜が将軍職に就いたのは慶応2年12月5日のことです。
その後慶応3年10月14日(勅許は翌日)に大政奉還したので、15代将軍の中で在位期間は1年足らずと最も短いものでした。
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王政復古のクーデター
大政奉還により武力発動の口実を奪われた討幕派は、12月9日に「王政復古」のクーデターを起こします。
王政復古により将軍職、京都守護職と所司代、摂政と関白の廃止、国事御用掛、議奏、武家伝奏といった旧体制が廃止となり、新政府には総裁、議定、参与の三職がおかれることになりました。
徳川慶喜は内大臣の職にありましたが「小御所会議」によって辞官と納地が決定されることになりました。
こうして慶喜の将軍在位わずか1年で、江戸幕府が崩壊したことになります。
江戸幕府が終わったあとの徳川慶喜の人生
慶喜は、その後も明治、大正時代と生き続けました。
将軍職を辞した後の彼の人生とは一体どんなものだったのでしょうか?
徳川慶喜は多彩な趣味を持っていました。その一つが写真です。
当時の屋外の様子を多くの写真に収めています。
その熱心さから当時の人気写真雑誌「華影」に投稿するほどでした。
しかし、元将軍といえども、たびたびの投稿にもかかわらず採用は難しかったようです。
今も残る徳川慶喜の写真から、頻繁に屋外に撮影に出かけていたことがうかがい知れます。
また、慶喜は油絵も上手でした。静岡県立美術館に彼によって書かれた油絵が所蔵されています。
将軍というイメージとはかけ離れた、写真や油絵といった美的なセンスがあったのでしょう。
慶喜の趣味は、まさに多種多様でした。
写真や油絵の他にも弓道を毎日行っていましたし、狩猟や当時珍しかった自転車でのサイクリングも好きだったそうです。
慶喜はダルマ型自転車(オーディナリー型自転車)に乗っていて、市内を運動のために乗り回していたことが当時の新聞に書かれています。
また、そのときに美人に気を取られ、看板に激突したという笑えるエピソードもあります。
さらにこれ以外にも、慶喜は手芸や碁、能楽、釣り、将棋、放鷹、打毬、飯盒での飯炊きなども好んでやっていたという話が残っています。
江戸幕府最後の将軍として波乱に富んだ時代を過ごした慶喜ですが、その後は悠々自適に趣味に生き、余生を幸せに送ったに違いありません。
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