忍者と手裏剣

江戸の忍者は手裏剣なんて本当は使わなかったらしい

忍者が手裏剣を使うのはドラマのなかだけのこと?

忍者というとどういったイメージを思い浮かべるでしょうか?

 

多くの人は、黒装束に身を包んで、十字型の手裏剣を目にもとまらぬ早業で投げつける姿をイメージするのではないでしょうか?

 

しかし、それは本当の忍者の姿ではなかったようです。

 

なぜなら、本当の忍者は黒装束に身を包むこともなかったし、手裏剣なんてほとんど使わなかったからです。

 

忍者は黒装束で夜中に行動するというのはウソ?

忍者というのは、現代風にいえばスパイということになります。

 

そのため、忍者の主な仕事は情報収集ということになります。

 

確かに、黒装束に身を包んでいれば、夜間に行動するときには目立ちません。

 

当時は夜になると月の明かりだけが頼りの真っ暗闇ですから、黒っぽい服装をしていればその姿をとらえることは困難であったろうと思われます。

 

スポンサーリンク

 

しかし、忍者の仕事は情報収集ですから、人々が寝静まった夜中に行動をしてもあまり意味がありません。

 

江戸時代の人々は現代のように夜に楽しめる娯楽などありませんでしたから、夜更かしをするなどということはありません。

 

風呂に入って夕食を済ませたら、さっさと寝てしまうわけです。

 

つまり、寝ている人から何の情報も得られないわけで、他人のいびきを聞いてもまったく意味がないということになります。

 

実は、忍者は昼間に堂々と行動することが多かったのです。

 

情報収集が目的ですから、人々が寝静まっている夜中ではなく、多くの人が起きて会話を交わしている昼間に行動をした方が合理的なわけです。

 

もちろん、昼間に黒装束など身にまとっていたら逆に目立ってしまいますから、スパイである忍者がそんなマヌケなことをするはずがありません。

 

忍者の多くは、商人や僧侶などに変装をして、地味に情報収集の仕事をすることが多かったようです。

 

ときには、百姓が農作業に行くときのような恰好をして、敵の城内の様子を確認したり、攻めやすい道を探したりということをしていたようです。

 

もっとも、江戸時代に入って戦というものがなると、忍者のする情報収集の仕事はほとんどなくなってしまい、屋敷や城の警備などが彼らの主な仕事になっていきました。

 

現存する手裏剣の多くはレプリカ?

忍者の武器といえば手裏剣を思い浮かべる人がほとんどだと思います。

 

しかし、実際の忍者が手裏剣を使うことはほとんどなかったのではないかということが、近年の研究によって明らかになりつつあります。

 

実際に忍者が使ったであろうと思われる本物の手裏剣というは、ほとんど残っていないからです。

 

私たちが目にすることのできる忍者が使ったとされる手裏剣の多くは、後世に作られたレプリカだといわれています。

 

忍者の目的がスパイとして敵の情報を収集することであることを考えた場合、相手を殺傷するための武器はそれほど重要ではなかったと思われます。

 

敵地で殺人などを犯したら、自分がとらえられてしまう可能性が高くなるからです。

 

忍者が手裏剣を手際よく飛ばして敵をやっつけるといのは、どうやら後世の人が作り出した偶像の可能性が高いといえます。

 

スポンサーリンク

 

忍者たちの逃げるための知恵と技術

忍者が手裏剣をほとんど使っていなかったとすれば、彼らの武器はいったい何だったのでしょうか?

 

忍者は、重要な情報を収集したら、さっさとその場を逃げ出さなければなりません。

 

つまり「逃げ足の速さ」こそが、忍者の最大の武器だったのです。

 

また、逃げる際にも、手裏剣などの武器をたくさん抱えていたのでは、体が重くなってしまって不利になります。

 

情報を収集したらさっさと姿をくらます必要がある忍者にとっては、なるべく身軽であることが重要だったわけです。

 

そして、忍者は敵から逃げるための技術に長けていたとされています。

 

水中に潜って竹筒で呼吸をする「水遁の術(すいとんのじゅつ)」も、敵の屋敷内に進入するための術というよりも、逃げるときに敵に見つからないようにするための術であったに違いありません。

 

また、かなり地味な方法ですが、相手にお湯をかけたり鐘などを鳴らしたりして、敵がひるんだすきに逃げだすという術もあったようです。

 

さらに、相手にお金を渡して逃がしてもらうなどという、とても「術」とは呼べないような術もあったようです。

 

実際の忍者というのは、想像以上に地味な方法で情報を収集していたということが理解できるかと思います。

 

テレビドラマなどで、忍者が逃げるときに火薬玉や煙玉などを使って敵の目をくらますシーンをときどき見かけますが、実際にはそういった派手でカッコいい逃げ方はしていなかったわけです。

 

そもそも忍者が使っていた火薬は黒色火薬で、投げつけただけで発火をするということはありませんでした。

 

テレビドラマの忍者のシーンに出てくるような、投げつけただけで自然発火するする火薬が登場したのは、忍者がほとんどスパイ活動をすることのなくなった幕末になってからです。

 

「くの一」と呼ばれた女忍者は本当にいたのか?

現代では、女性のスパイが活躍してマスコミをにぎわすようなことがあります。

 

なかでも「ロシアの驚くほど美しい女スパイ」と話題になったアンナ・チャップマンは、記憶に新しいことでしょう。

 

忍者の世界においても「くの一」と呼ばれる女忍者がいたとされていますが、実際にはどうだったのでしょうか?

 

結論からいってしまいますと、「くの一」と呼ばれるような女性の忍者が存在したことが書かれている歴史的な資料というのは、残念ながら残されていないようです。

 

つまり、存在しなかった可能性が高いということです。

 

おそらく、後世の人々によって物語のなかで作られていった偶像であると思われます。

 

唯一実在した「くの一」ではないかといわれているのが、望月千代女という女性です。

 

望月千代女は、甲賀流忍者の上忍の娘で、竹田信玄の甥と結婚していました。

 

この甥が川中島の戦いで亡くなってしまって未亡人となってしまったことにより、信玄は彼女を「巫女道修練道場」という道場の頭を任せることになりました。

 

「巫女道修練道場」というのは、「歩き巫女」と呼ばれる各地を旅しながら歌や舞などを披露しつつ、祈祷などをする女性を育成していたところです。

 

この「歩き巫女」たちが、各地を旅しながらスパイ活動も同時に行っていたのではないかとされています。

 

望月千代女が甲賀流忍者の上忍の娘であることと、「歩き巫女」たちを育成していたという事実から、彼女が唯一の「くの一」と呼べる存在なのではないかといわれているわけです。

 

ご存知の方も多いと思いますが「くの一」というのは、「く・ノ・一」を組み合わせることで「女」という字になることから、そう呼ばれるようになったといわれています。

 

スポンサーリンク

 

このエントリーをはてなブックマークに追加