江戸時代に悪代官と越後屋の悪巧みは本当にあったのか?
時代劇によく登場するヒールが悪代官です。
「越後屋、おぬしも悪よのう」
と、悪代官と商品が声をひそめて悪巧みをしているシーンは、誰もが記憶にあることでしょう。
実際に、江戸において、悪代官と豪商たちの関係というのはどのようになっていたのでしょうか。
テレビのあのシーンのような悪巧みの光景は、日常茶飯事だったのでしょうか?
意外にも薄給で生活は楽ではなかった代官
時代劇に登場する悪代官はとても羽振りがよく見えますが、代官という職業に対して幕府から支給される家禄は想像以上に安かったようです。
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越後のある代官の家禄は200俵で、それを換金すると85両ほどになりました。
これに加えて、59人扶持の役料として590両が支給されました。
この数字だけをみますと、かなりの金額が支給されていたように思われますが、実際にはそれ以上に出費がかさんでいたのです。
江戸の役所と越後の現地の役所には19人の部下がおり、さらに小使も8人いましたが、彼らの人件費だけで、644両の支出となっていたのです。
さらに代官本人の生活費が年間283両かかっており、この年はトータルで300両ほどの赤字となってしまったようです。
このように代官所が経済的に破綻してしまっていたために、村の灌漑などを行うことができなかったようです。
幕府からのお金を豪商に貸してその利息を得ていた代官
代官所が破綻してしまって、本来の業務に支障が出ること回避するために、江戸幕府は代官に1万両以上の金を預け、それを豪商や豪農に貸し付けて利息を得ることを認めたのです。
幕府が金主ということになりますから、現代で言えば政府系金融公庫のようなものでしょうか。
その際の利息は年利1割で、その利息のさらに1割を代官の生活費に充てることを認めたのです。
地域によっても異なりますが、実際には幕府より3万両ほど預かり、それを貸し付けて3000両の利息を受け取り、その1割の300両が代官の懐に入ったことになります。
そういったお金の貸し借りを通じて、代官と豪商は親密になっていったわけです。
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接待の目的は悪巧みではなく返済を待ってもらうため?
代官が豪商たちにお金を貸して、それをすんなりと返してもらえれば何も問題は起こりませんが、豪商とて商売が常にうまくいっているとは限りません。
時には返済が滞り気味になってしまうことも頻繁にありました。
そのようなとき、なんとか返済をまってもらおうと豪商たちは代官を接待したわけです。
ですから、実際に代官と豪商が接待の席でひそひそ話をしいたというのは事実ですが、それは代官の悪巧みのためというよりも、豪商からのなんとも困った相談だったわけですね。
悪代官は実際にはどれくらいいたのでしょうか?
代官を豪商が接待をするケースのほとんどは借金の返済をまってもらうためのものだったのですが、時代劇に出てくるような本当の悪代官というのはどれくらいいたのでしょうか?
やはり、権力とお金の流れのあるところに身を置けば悪巧みをしたくなる人間はある一定数必ず存在するものです。
実際に、悪巧みを働いて罷免された悪代官は12%ほど存在したようです。
代官の1割強が悪代官だったということになりますが、時代劇から受けるイメージほど悪代官が多かったわけでもないようです。
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