遠山の金さんの背中には本当は桜吹雪なんてなかった!?
遠山の金さんといえば、背中の桜吹雪が特徴的な江戸時代の名奉行というイメージがあると思います。
白を切る罪人を目の前にして、遠山の金さんが桜吹雪を見せつけて啖呵を切るシーンは、水戸黄門が印籠を出すシーンと同様に何度見てもスカッとしますね、そのシーンこそが人気時代劇として長いあいだ視聴率を稼いできた大きな理由の一つといっていいでしょう。
しかし、実はこの遠山の金さんのシンボルともいうべき桜吹雪の彫り物ですが、どうやら彼の背中にそのような彫り物はなかったようなのです。
桜吹雪ではなく、絵巻物を口にくわえた女の首が彫られていたという説もあります。
ここでは、遠山の金さんの真実について考えてみたいと思います。
遠山の金さんってどんな人だったの?
もちろん、遠山の金さんは実在した人物です。寛政5年8月23日に、現在の東京虎ノ門で生まれています。
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幼名は通之進でしたが、17歳のときにおなじみの金四郎という名前に改めました。
江戸時代には、現代のような姓と名前だけではなく、生前の徳行によって死後に贈る称号である諱(いみな)というものがありました。
遠山の金さんの諱は「景元」で、諱を含めた正式名は遠山金四郎景元となります。
そのため、遠山金四郎と読んだり遠山景元と読んだりすることがあります。
遠山の金さんは、22歳で結婚をして、33歳の時に養父の死去に伴い家督を継ぐことになります。
小納戸役という、将軍の側でこまごまとした雑用をする役です。
ここから、遠山の金さんは順調に出世をして、48歳のときに北町奉行に就任することになります。
北町奉行を2年務めた後、のちに南町奉行となり7年間の任務を全うすることになります。
ドラマでは「北町奉行・遠山左衛門尉様、ご出座〜」というセリフがありますので、時代劇の背景は北町奉行時代ということになるでしょうか。
遠山の金さんは名奉行ではなかった?
日本人であれば誰もが名奉行として認識している遠山の金さんですが、実際は時代劇で描かれているような、名奉行ぶりを示すような文献は残されていません。
どうやら、遠山の金さんは、ごく一般的な町奉行だったようなのです。
では、なぜ時代劇で見られるような大人気の町奉行となってしまったのでしょうか?
実は、人気の火付け役となったのは歌舞伎なのです。歌舞伎界にとって、遠山の金さんは、いわば恩人でした。
金さんが北町奉行に就任した翌年に、芝居小屋が2件続けて火事になりました。
そのことがきっかけとなって、当時の老中であった水野忠邦が芝居小屋を辺鄙なところに移転しようとしました。
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しかし、芝居小屋を移転しても問題は解決しないと、水野忠邦に真っ向から反論したのが遠山の金さんだったのです。
結果的に移転することにはなったものの、このことに恩義を感じた歌舞伎界では、金さんの名奉行ぶりをアピールする芝居を上演することになります。
そして、その後さまざまな尾ひれがついて、いつの間にか遠山の金さんは江戸を代表する名奉行ということになっていったようです。
実際には桜吹雪の彫り物はしていなかった?
遠山の金さんには空白の10年間というものがありました。
もともと金さんの父親は勘定奉行や長崎奉行を歴任した人物ですので、その長男である金さんは本来であれば順当に後継者となっていたはずでした。
しかし、義理の叔父が金さんの父親の養子となっていたために、すぐに跡を継ぐことは出来なかったのです。
そのため、遠山の金さんには10年間のブランクが生じることとなり、20代はもっぱら遊び人の放蕩生活を送っていたのです。
遠山の金さんのトレードマークである例の桜吹雪の彫り物は、この放蕩生活の時代に彫ったものだとされていますが、その根拠となるのは明治26年に発行された雑誌に載った伝聞記事のみです。
しかも、その伝聞記事によると、金さんの彫り物の絵柄は桜吹雪ではなく、口に絵巻物をくわえて髪を振り乱した女の首だったそうです。
そのことを知った歌舞伎界では、彫り物をした金さんを作品にして盛んに上演しました。
当初は、伝聞記事に書かれたような女の首の彫り物だったようですが、やがて江戸の人々に愛された桜吹雪の彫り物に代わっていってしまったようです。
遠山の金さんのトレードマークである背中の桜吹雪は、このようなさまざまな経緯があって歌舞伎やテレビの時代劇で演じられるようになったわけです。
この他にも、遠山の金さんがしていた彫り物に関しては「右腕のみだった」とか「桜の花びら1枚だけだった」などの諸説があるようです。
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