岡っ引きにつれていかれる番所(自身番)は、本当は公民館だった!?
時代劇の捕り物帳などでおなじみの「岡っ引き」が「御用、御用」犯人を捕まえて連れて行くところといえば番所です。江戸の町で罪を犯すと、番所につれて行かれたのです。
現代でいえば警察署の取り調べ質のようなイメージがあるかもしれませんが、実はこの番所は、普段は自由に町民たちが出入りできる公民館として利用されていたようです。
湯屋や床屋などと同じように町内の人にとっての一種の社交場だったのです。
そこではいったいどのようなことが日常的に行われていたのでしょうか。
治安維持のために町内会費でまかなわれた自身番
番所は正式名称を自身番といい、各町内に簡易的な小屋を設置して家主や書役などが昼夜そこに詰めて町内の治安を守っていました。江戸の末期には1000か所近くあったといわれています。
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これらの自身番に詰める番人たちは、夜回りをして不審人物を尋問する権利を与えられていたのです。
自身番の設置費用や運営のための経費は、すべて町内の人たちから集めた町入用と呼ばれる町内会費で賄われてしました。
江戸時代後期になると自身番に火の見櫓が設置されるようになり、建物の中には捕り物の道具だけではなく消防活動のための道具も置かれるようになりました。
いざ火事が起こった時には、自身番の番人が消火活動も行っていたようです。
現代でいえば、交番と消防署が合体したようなイメージでしょうか。
普段から人の出入りの多い公民館のようなところでした
自身番では、これらの捕り物や消火活動の他に、さまざまな願書などへの捺印や喧嘩の仲裁、さらには捨て子や行き倒れの人を保護するといったようなことまで行っていました。
そのため、自身番には普段からたくさんの人が出入りをしていたようです。
もともと町内の人がお金を出し合って運営施設ですから、出入りは基本的自由であるため、ある意味公民館的な場所でもあったわけです。
自身番の中で将棋を指したり本を読んだりするものも多く、町民たちの憩いの場として大いに利用されていたわけです。
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もともと自身番は治安維持が目的であったために、たとえ夜であっても戸や障子を閉めてはいけない決まりでしたが、中には障子をしめ切って中で酒盛りを行うなどという不届き者もいたようです。
こうなると、時代劇で岡っ引きにつれていかれる怖い場所というイメージはまったくありませんね。
必要に迫られて増築されていったが、その後....
ちなみに、この自身番の大きさはどの程度だったのでしょうか。
もともとは規格が決められており、間口が約2.7メートル・奥行きが3.6メートル・高さが4.8メートルというのが正式なサイズでした。
さまざまなことが行われていたわりには、サイズ的にはかなり小さな小屋といえると思います。
しかしその後、専任の番人がそこの居住することが出来る広さに2階建てなどに増築されることが多くなりました。
増築によって弘子なることで、自身番は社交場としてますます快適な場所となって行きました。
そのため、天保の改革の際には次に自身番を改築するときには、元の規定通りの大きさにもどすようにとの厳命が下りました。
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