侍の休暇

侍たちは週休5日が当たり前だった!?

侍たちは週休5日が当たり前だった!?

現代の日本では週休2日が当たり前となっていますが、昭和の時代には休みは週休1日が一般的でしたし、世界的にも日本人は勤勉であると言われ続けてきました。

 

しかし、そんな多忙な現代人にとってはなんとも羨ましい限りですが、江戸時代の武士たちの中にはなんと週休5日でのんびり勤務の人も大勢いたのです。

 

週休5日ということは、すなわち1週間でたった2日しか仕事をしなかったということになります。

 

当時の侍たちが、いかにたっぷりとプライベートな時間を持っていたかが容易に想像できるかと思います。

 

「三日勤め」や「六日勤め」といった勤務形態

江戸城の護衛や雑務に従事する御家人たちは「三日勤め」という勤務形態になっていました。

 

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「三日勤め」というのは、当番一日に対して非番が二日のサイクルで公務をおこなうものです。

 

しかも、当番の日も朝番・夕番・不寝番の三交代制でした。

 

事務職の役人であっても、三交代こそありませんが、二日出勤すれば1日の休暇が与えられました。

 

幕末には、本丸に月に1日勤め、その他の勤番が五日という「六日勤め」という番方もあったようです。

 

この場合ですと、まさに週休五日の計算になります。

 

このように、江戸の下級武士たちには毎月20日前後の休暇があったことになり、彼らにはたっぷりと余暇がありました。

 

休暇が多いのは内職をすることが前提になっていたから

彼らになぜそれほどの休暇が与えられたのでしょうか?

 

実は、下級武士の多くは非番の日の多くを内職に当てていたのです。

 

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当時の最下級武士たちの1年間の給料は「三両一人扶持」でした。

 

「三両一人扶持」とはつまり、現金三両とお米5俵ということです。

 

現代の貨幣価値に直せば、40万円弱といったところでしょう。

 

要するに年収が40万円弱ということになります。

 

これだけではさすがに生活できないので、彼らは内職に励んだのです。

 

武士の内職というと傘張りを思い浮かべる人も多いと思いますが、それ以外にも鈴虫やコオロギの養殖をしたり、房楊枝を作ったり、提灯や凧を作ったりとさまざまな内職が行われていたようです。

 

そういったことを考えてみますと、「三両一人扶持」の最下級武士たちにとっては、勤番の日よりもむしろ休暇の日の方が大変だったのかも知れません。

 

武士という華やかな身分とは裏腹に、そういった苦労もあったわけです。

 

湯屋でのんびりと余暇を過ごす武士もいました

一方で、同じ武士でもある程度の収入があった中級以上の幕臣ともなれば、内職に日々追われるということもなく、有り余る余暇を武芸などの習い事や趣味、学問などに有効に使っていたようです。

 

一方、余暇のある江戸勤番の下級武士たちにとっての一番の暇つぶしは、神社を参詣しながらの江戸見物でした。

 

観光の合間に湯屋の2階でゴロゴロしたり、安い蕎麦をたしなんだりするのが彼らのひそかな楽しみだったようです。

 

本来であれば、武士が湯屋に通うことは許されなかったのですが、実際には湯屋は下級武士にとって暇つぶしの定番の場所だったようです。

 

現代人でいえば、健康ランドでのんびりと疲れを癒すようなイメージでしょうか。

 

なんとも羨ましい限りですね。

 

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