棄捐令で一時は救われた旗本や御家人が再び困窮した理由
江戸時代において地位が高いとされていた武士ですが、下級武士たちの生活はかなりきびしいものでした。
生活のために傘張りなどの内職をする下級武士も多かったようです。
参考:江戸のお侍さんは意外にも貧乏でした〜内職をするのは当たり前
生活の苦しい武士たちは、「札差(ふださし)」と呼ばれる米の仲介人から、相当な額の借金をしていました。
そんな借金まみれの旗本や御家人たちの借金が、チャラになってしまうという事件が起こったのです。
それが「棄捐令(きえんれい)」と呼ばれるものです。
松平定信が寛政の改革のときに初めて発令した棄捐令では、なんと120万両(1536億円)もの借金が棒引きになってしまったのです。
これでは「札差」はたまったものではありません。
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なぜ旗本や御家人は借金まみれになったのか
旗本や御家人たちの収入源は、それぞれの家禄に応じて幕府から給料として年に三度支給されるお米です。
これらの幕府から支給されるお米は「蔵取り米」と呼ばれていました。
武士たちは、この「蔵取り米」中から自分たちで食べる分だけを残して、残りを米問屋に売却して現金に変えていたわけです。
しかし、江戸の町の物価が高騰していくなかでも、幕府から支給されるお米の量は変わりません。
さらに、農業の技術が進歩したことによりお米がたくさんとれるようになると、徐々に米価が下がっていきました。
支給されるお米の量は変わらないのに、物価の上昇と米価の下落というダブルパンチのおかげで武士たちの生活はどんどん苦しくなっていったわけです。
そんな生活に困窮した旗本や御家人たちは、札差への借金を重ねていったわけです。
札差の本来の仕事とは?
札差の本来の仕事は、もちろん旗本や御家人にお金を貸すことではありません。
札差は、もともとは武士たちが幕府から支給された蔵取り米を運搬することで収入を得ていました。
旗本や御家人が幕府から支給されたお米を現金に換えるには、米問屋まで運搬しなければなりません。
それを代行するのが、本来の札差の仕事だったわけです。
面倒なお米の運搬を武士たちの代わりに行って、「札差料」と呼ばれる手数料をいただいていたわけです。
また、運搬と同時に米問屋への売却も代行して行い、「売側(うりかわ)」と呼ばれる手数料も取っていました。
つまり、この「札差料」と「売側」が本来の収入源だったわけです。
しかし、武士たちの生活が苦しくなるにつれて、将来支給される予定の「蔵取り米」を担保にお金を貸すようになったのです。
そうして、札差は金融業者として徐々に力をつけていったわけです。
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利息は、当初年利で20%〜25%ほど取っていたようです。
その後幕府によって、15%以下とするよう法定利息が決められました。
しかし、実際には15%を多少超える程度の利息を受け取ることが認められていたようで、実際には年利18%程度になっていたようです。
現代の銀行のなどの金利とくらべるとかなり高く、消費者金融の金利とほぼ同じくらいといっていいでしょう。
もともと生活の苦しかった武士たちが、そんな高利で借金を繰り返したわけですから、ますます生活が苦しくなっていったのは当然です。
なかには4年先や5年先の蔵取り米まで担保に入れて借金するものもあらわれ、旗本や御家人の借金は膨らんでいく一方でした。
棄捐令で一度は救われた武士たちですが
武士たちの借金が膨らんでいくのを、見かねた幕府はとうとう禁じ手を使うことになります。
武士たちが札差にしている借金のうち、借り手から6年以上のものについてはすべてチャラにし、それ以降の分は利息を3分の1に減らすというものです。
これがいわゆる「棄捐令」と呼ばれるものですが、札差が貸し付けたお金120万両が棒引きになってしまったといわれています。
現代でたとえるならば、消費者金融から借り入れをしている人の借金を、国がチャラにするようなものです。
このような理不尽きわまりない踏み倒しをされたのでは、札差たちも黙ってはいられません。
それ以降は、武士たちからの借金の申込みを一切断るようになってしまったのです。
借金がチャラになって、一時的には楽になった旗本や御家人たちですが、新たな借金ができなくなってしまったことで再び生活が苦しくなりました。
生活に困った武士たちの中には、追剥(おいはぎ)や盗人になる人までいたといいます。
一時しのぎの政策では、何も解決にならないといういい見本が「棄捐令」であるといえるでしょう。
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