武士は食わねど高楊枝は本当?〜質素だったサムライたちの食事事情
身分の高い武士たちは、さぞや美味しいものを食べていたのではないかと思われがちですが、実際には江戸の武士たちは贅沢をすることを禁じられており食事は意外にも質素なものでした。
ある武士の日記には日々の食事メニューが克明に残されており、当時の武士たちの質素な食事事情がしっかりと記録されています。
ある日には、朝昼晩すべての食事が「お茶漬け」などという日もあったようです。
ここでは、そんな江戸の武士たちのつつましい食事事情について紹介してみます。
将軍の側用人でさえも食事は質素なものでした
食事が質素であったのは、薄給で生活が苦しかった下級武士ばかりではありません。
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将軍の側用人であった柳沢吉保でさえも、朝食が一汁三菜、夕食が一汁五菜の1日2食であったと言われています。
もともと江戸初期の頃は、戦国時代の名残から武士は朝と夕方の2食という形が一般的だったのです。
しかし元禄の頃になると、武士も町人も、朝昼夕の3度の食事が一般的になっていました。
そんな中、幕府は武士たちが贅沢に走るのを抑えるため、享保9年に「御触」を出しました。
その御触では、旗本などの上級武士の場合でも、結婚などの祝儀で二汁六菜、それ以下の会合では一汁四菜以下にせよと命じられていました。
旗本でさえもその程度ですから、その御触に従えば、ずっと位の低い小身などは一汁三菜以下になってしまいます。
それほど江戸の武士は質素にこだわったのです。
意外にも飲み食いに贅沢をしていた町人たち
ちなみに江戸には武士とほぼ同じ人数の町人が住んでいましたが、質素な武士たちを尻目に、彼らは貧しいながらも「食い倒れの江戸」と呼ばれるほど飲み食いだけは贅沢をしていました。
江戸には当時「八百善」や「百川」などという高級料亭がありましたが、そういった場所には旗本たちや御家人は全く縁がありませんでした。
そういった高級料亭の主なお客は、諸藩の留守居や豪商といった懐事情のあたたかい町人たちでした。
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日記に残されたある武士の食事メニュー
当時の武士たちの質素な食事ぶりが日記として残されています。
武蔵野国忍城下(現在の埼玉県行田市)に住んでいた尾崎準之助という十人扶持の武士が残した「石城日記」には、食事のメニューが記載されています。
ある年の六月のメニューを紹介すると以下のような感じです。
六月十五日
朝食:なし
昼食:焼き貝
夕食:しじみ汁
六月十六日
朝食:つみいれ汁
昼食:豆腐
夕食:豆腐
六月十七日
朝食:ごぼう汁
昼食:ナス
夕食:鰹節
夜食:ゴボウ・ドジョウ・奴豆腐
六月十八日
朝食:なし
昼食:八杯豆腐
夕食:八杯豆腐
六月十九日
朝食:なし
昼食:なし
夜食:塩引きサケ・奴豆腐
六月二十日
朝食:茶漬け
昼食:茶漬け
夕食:茶漬け
六月二十一日
朝食:なし
昼食:なし
夕食:揚げ物・塩ナス
夜食:料理屋にて・玉子焼き・茶碗蒸し・ウナギ・ナス甘煮・ほか1品
これを見ても、いかに武士たちの食事が質素だったかがおお分かりでしょう。
一日三食ともお茶漬けの日があったりして、栄養バランスてきにもあまりよさそうな食事ではありませんね。
ただ、六月二十一日の夜食に見られるように、ときどきは仲間たちと小料理屋で飲み食いをするという、ちょっとした贅沢を味わっていたようです。
武士は食わねど高楊枝とはいえ、やはり本音は贅沢をしたかったに違いありません。
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