江戸のお侍さんは意外にも貧乏でした〜内職をするのは当たり前
江戸のお侍さんといえば身分が高く、それなりの優雅な生活をしていたと思われますが、下級武士たちになるとその生活はかなり質素なものでした。多くの下級武士たちは内職をして、生活の足しにしていたのです。
内職というと貧乏臭いイメージがありますが、江戸のお侍さんにとってはそれは当たり前のことだったのです。
彼らはどのような内職をしていたのでしょうか?
最下級武士の年収はなんと37万5千円!?
よく時代劇などで、下級武士に対して「このドサンピン」などというセリフを吐くシーンがよく見られます。
実は、この「ドサンピン」という言葉は、当時の最下級武士の1年間の給料が「三両一人扶持」だったことに由来しています。
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つまり「三両」のサンと、「一人扶持」の一、すなわちピンを合わせて「ドサンピン」というわけです。
1両の貨幣価値を現代に置き換えるのはなかなか難しいのですが、当時の物の値段から換算するとおよそ10万円程度と考えられます。
そして「一人扶持」というのは、米五俵のことです。
つまり、当時の最下級武士の給料は1年間でわずか30万円ほどの現金と五俵のお米だったということになります。
お米の値段を現代の貨幣価値に換算すると、お米一俵は1万5千円ほどです。
ということは、五俵だと7万5千円ほどということになります。
現金でいただく三両と合わせて、およそ37万5千円が彼らの年収ということになります。
月収ではなく、あくまで年収です。現代のサラリーマンの平均年収の10分の1以下です。
お侍さんたちが行っていた意外な内職の数々
さすがにこれだけの給料で生活していくのは実質的に不可能で、当時の多くの下級武士たちは「内職」をしていました。当時、百石以下の下級武士たちは内職をすることを許されていたのです。
彼らの行っていた内職にはさまざまなものがありました。
金魚や鈴虫、コオロギなどの養殖から、傘張りや提灯、凧などを作る仕事、あるいは朝顔やツツジの栽培などありとあらゆる仕事を行っていました。
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特に傘張りは時代劇などでそのシーンを見かけることが多いので、武士の内職というと傘張りを思い浮かべる人も多いことでしょう。
このように、彼らはさまざまな仕事を行っていましたが、それらの仕事は地域によって盛んな場所があり、代々木の鈴虫・コオロギ、下青山の傘張りなどが有名です。
明治以降の名物である「入谷の朝顔市」も、元をたどれば武士たちの朝顔栽培の内職から来ているわけです。
しかし、彼らには仮にも武士としてのプライドがあるために、内職で作ったものを商人の屋敷まで売りに行くことをしませんでした。
それらを卸問屋まで持って行って換金するのは、武家地の辻番の番人が副業として行っていました。
武士たるもの、いかに懐事情が寂しくても商人に頭を下げるわけに行かなかったのでしょう。
旗本でさえも決して豊かではなかった懐事情
こうした内職が許されたのは百石以下の下級武士だけだったのですが、実は下級旗本なども決して懐が暖かかったわけではないようです。
そこで彼らは三味線や踊りなどの腕を磨いて、高級旗本などが催す宴会でそれらを披露して「おひねり」をいただくというようなことをしていたようです。
高級武士である旗本が、芸人まがいのことをしてお金を稼いでいたというのは驚きです。
江戸時代では、農民ばかりが貧しい生活をしていたようなイメージがありますが、実は武士たちの生活も決して楽ではなかったのです。
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