江戸の武士がハゲのため髷が結えないときはカツラを使う?
いつの時代においても、男性にとって髪の悩みは深刻です。
現代であれば、思い切ってスキンヘッドにしてしまうという荒業もありますが、江戸の武士にとってシンボルともいえる髷(まげ)が結えなくなるというのは大問題です。
髪が薄くなるのは自然の摂理ですから、本人の努力でどうにかできる問題ではないのですが、髷が結えないのを恥と考えた武士たちは涙ぐましい努力をしていたようです。
もちろん江戸時代にもカツラはありましたが、現代のカツラのように快適なものではなかったようです。
武士たるもの立派な髷があるべしと考えていた
江戸時代の武士たちは「ハゲは恥」だと考えていたようです。
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当時は、月代(さかやき)といって前頭部から頭頂部にかけて剃り上げていたわけですから、ハゲでもあまり気にする必要がないような気がしますが、髷が結えなくなってしまうのが問題だったようです。
現代では髷のことを「ちょんまげ」などと言ったりしますが、いわゆる正式な髷とちょんまげは異なります。
年を取って髪の毛が薄くなった人が、なんとか頭の後ろのほうで束ねて先っぽを結んだものを「ちょんまげ」と呼んだのです。
つまり「ちょんまげ」は、自分が年をとって力の衰えた老人であることを他人に知らしめているようなものですから、武士としては恥と考えたわけです。
やはり、堂々とした立派な髷があってこその武士だったわけです。
付鬢と呼ばれたつけ毛によって薄毛をカバー
ハゲは武士の恥といっても、これは本人にはまったく罪のないことですが、そういった価値観が根付いてしまったことには仕方がありません。
若くして髪の薄くなった武士たちは、なんとか髷を結うためにいろいろと努力をしていたようです。
髪の薄くなり始めた彼らが一般的に行ったのが「つけ毛」と呼ばれるものでした。
頭頂部に関しては、もともと月代で髪の毛がないヘアスタイルでしたから、むしろハゲのほうが剃る手間が省けて好都合だったに違いありません。
問題になるのは、髷の部分です。
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髷を結うためには、左右の鬢(びん)と呼ばれる部分にある程度のボリュームと長さがなければいけません。
そこで左右の鬢の部分になじませるように「付鬢(つけびん)」と呼ばれるつけ毛をしたわけです。
こういった「付鬢」は、髪になじませて油で固定しただけだったために、少し激しい動きをするとすぐにずれてしまったようです。
江戸の町では女性の抜け毛を集めて売っていた
それでは、その「付鬢」のもとになる髪の毛はどこで手に入れていたのでしょうか?
実は、付鬢には女性の抜け落ちた髪の毛を使っていました。
女性の抜け落ちた髪の毛といっても、1人や2人の女性からそうそう髪の毛が抜け落ちるはずもありません。
そこで、不特定多数の女性の抜け毛をかき集めることになります。
江戸の町では、女性の抜け毛を買い集める「おちゃない」と呼ばれる職業があったのです。
「おちゃない〜おちゃない〜」と声を出しながら江戸の町を歩き回っていたようです。
「おちゃない」というのは、「落ちた物はないか」という意味であったろうと思われます。
江戸の女性たちは、抜け落ちた髪の毛を日々かき集めて、この「おちゃない」が来るのを待っていたに違いありません。
いずれにしましても、「付鬢」は人毛100%のカツラということになりますから、そういう意味では優秀なカツラであったということがいえるでしょう。
もちろんすっぽり被るカツラもありました
江戸時代におけるハゲ対策は、付鬢だけではなくすっぽりと被るタイプのかつらも存在しました。
もともとはハゲ対策というよりも、歌舞伎役者などが愛用していたものです。
当時のカツラは完全なオーダーメイドで、うすい銅板をつかって一人ひとりの頭の形に合わせてコツコツと巧妙に叩きながら土台を作っていました。
ただし、武士がハゲ隠しのためにこうしたオーダーメイドのカツラを日常的に使っていたとういう例はあまりなく、公の場に出向くときだけ一時的につけたりしていたようです。
付鬢も出来ないほど髪の毛がなくなってしまった場合
いよいよ髪の毛がほとんどなくなり、付鬢どころか「ちょんまげ」すら結えなくなってしまった武士はどうしたのでしょうか?
高齢になってきて髪が結えないほどハゲてしまったら、多くの武士はいよいよ潮時と考えたようです。
そういったタイミングで、引退して家督を息子に譲ることが多かったようです。
しかし、高齢で髪が薄くなってしまった場合にはそれでまったく問題ありませんが、若ハゲの場合には引退するわけにもいかずに本当に困ったことでしょう。
たかが髪の毛、されど髪の毛。いつの時代においても髪の毛の問題に悩む男性は多かったに違いありません。
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