武士と切腹

江戸の武士は短刀ではなく木刀や扇子で切腹をした!?

切腹なのに自分で腹を切らない武士も多かったようです

外国人に日本の武士について何を連想するかと聞くと「ハラキリ」と答える人が多いそうです。

 

切腹というのは、それほど衝撃的で印象に残る行いであるといえるでしょう。

 

切腹は死刑の中でも武士だけに許された方法であり、武士らしく潔く死ぬための作法であったとされます。

 

しかし、戦国時代ならばいざ知らず、天下泰平の江戸の世においては、武士といえども実際に自分の腹に短刀を突き立てて切腹を行うほどの、胆力のあるものは少なかったようです。

 

それでは、実際の切腹はどのように行われたのでしょうか?

 

切腹はいつ頃から行われていたのか?

切腹が最初に行われたのは平安時代(988年)だといわれています。

 

藤原保輔が事件を起こしたときに、自分の腹を切って死んだとの記録が残っているようです。

 

しかし、これは刑罰としての切腹というよりも、自殺を図って自分の腹を切り裂いたというのが真相のようです。

 

その後、室町時代などにも切腹を行った武士の記録が残っていますが、この当時の切腹は武士の不手際に対する責任の取り方としてではなく、主君が亡くなったときの殉死の形で切腹を行うものがほとんどだったようです。

 

その後、武士の責任の取り方が切腹であるという考え方が一般的になったのは、戦国時代です。

 

戦国時代の武将たちは、不始末があったときには最大の痛みを伴って死ぬことこそが武士としての最後の誇りと考え、実際に腹に短刀を突き立てて切腹を行っていたようです。

 

また、この時代においては豊臣秀吉が千利休に切腹を命じた話が有名です。

 

ただの作法となってしまった江戸の武士の切腹

戦国時代の武将たちが、最大の痛みを伴って死ぬことこそが武士の誇りと考えたように、切腹で死ぬのは大変な苦痛が伴いました。

 

腹を切ってもなかなか死ぬことができずに、一晩中苦しみぬいたあげく絶命することも多かったようです。

 

そういった過度の苦痛から解放させてあげるために、介錯人が首を切り落としたわけです。

 

この解釈人が首を切り落とすというやり方は、戦国時代にはすでに行われていたようです。

 

その後江戸時代になって、切腹はただの儀式的なものになっていきました。

 

戦でいつ命を取られてもおかしくない時代を生き抜いていた戦国武将たちとは違い、天下泰平の江戸の世において、自分の腹に短刀を突き立てることの出来る武士は少なかったようです。

 

そのため、実際には腹を切らず、三方(神事に使われる台)に乗せられた短刀に手を伸ばした瞬間に、介錯として首を切り落としてしまう方法に変わっていきました。

 

さらに、目の前に短刀を置いておくとどうしても恐怖心がわき、取り乱してしまう武士もいたようで、三方のうえに短刀でなく紙で包んだ木刀や白い扇子を代わりに置くこともあったようです。

 

そして、三方のうえの木刀や扇子を取りに行くしぐさをする瞬間に、介錯として首をはねたわけです。

 

扇子で切腹したことが世間に知られると「やつは扇子腹だったそうだ」などと陰で臆病者扱いされることもあったようです。

 

木刀や扇子でさえも怖くて実行できなかった者には、「一服」といて毒を渡されてそれで命を絶つ方法も用意されていたようです。

 

もはやこれでは切腹とは呼べませんね。

 

切腹にまつわるさまざまな言葉

切腹にまつわる言葉にはさまざまな言葉があります。

 

それらは、切腹にちなんでそれも「腹」という文字が組みあわされています。

 

先ほど紹介した「扇子腹」というのは、扇子を使って行った切腹のことを言います。

 

「十文字腹」というのは、戦国の武将が行ったといわれる切腹方法です。

 

腹を左から右に切ったあとに短刀を抜いて、今度はみぞおちのあたりに突き刺してへそのあたりまで切り下げるというもので、文字通り十文字に腹を切ったわけです。

 

主君のあとを追って、いわゆる殉職の形でする切腹を「追腹」といいました。

 

近年では、明治天皇が亡くなったときに追腹の形で切腹をした乃木将軍が有名です。

 

その他、責任を取ったり義理のために行う切腹を「詰腹」と呼んだり、理不尽な理由で納得がいかないまま切腹を命じられたときには「無念腹」などといいました。

 

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