江戸の町に交通事故が多発した本当の理由とは?
江戸時代の交通事故といってもピンとこない人も多いと思います。
江戸時代には、現代と違って自動車というものがありませんでした、そもそも交通事故を起きようがないと思いがちです。
しかし、江戸時代にも車はあったのです。
車といっても自動車ではなく、大八車や牛車(ぎっしゃ)などです。
意外なようですが、これらの車にひかれるという交通事故が江戸時代には頻繁に起こっていたのです。
なぜ江戸の住民は大八車にひかれてしまったのか?
江戸時代では物資の輸送のために、大八車や牛車といったものが使われていました。
狭い江戸の町の道路は、これらの物資を運搬する車で混雑をしていたようです。
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江戸には、1701年当時で大八車だけで2239両もあったとの記録が残っています。
しかし、混雑していたとはいえ、現代の車のように猛スピードで走っているわけではないのに、なぜひかれてしまう人がいたのでしょうか?
実は、大八車による事故は坂道で起こることが多かったのです。
江戸の町は非常に坂が多かったわけですが、大八車は下り坂にさしかかったとたんに一気に加速をすることになります。
しかも、大八車にはブレーキというものがありませんので、重い荷物を積んで加速がついてしまった大八車を止めることは不可能です。
江戸の町の道は狭いですから、スピードに乗った大八車をよけきれずに逃げ場のなくなった人がひかれてしまう事故が多発したわけです。
重量級の大八車にひかれてしまうのですから、軽いけがで済むはずがありません。
命を落としてしまう人も少なくなかったようです。
また、牛車の場合は、下り坂で勢いがついてしまうということはなかったと思われますが、牛や馬が町中の何らかの刺激を受けて、突然暴れだしてしまうというようなことが起こったようです。
狭い江戸の道路を、コントロールできなくなった牛車が走り抜けていくわけですから、事故を起こさない方が不思議です。
ただ、江戸の時代には馬車というものがほとんど使われませんでしたが、もし牛以上に刺激を受けやすい馬を使っていたら、さらに交通事故が増えていたかも知れません。
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交通事故で人を死なせたものは死罪
江戸の町で交通事故があまりにも頻繁に起こることに頭を痛めた幕府は、とうとう法規制に乗り出します。
車間距離を設定したり積載量の制限、さらには狭い路地での駐車禁止など現在の道路交通法にも通じるルールが作られました。
しかし、そういった規制をかけても交通事故が減ることはなく、1716年には罰則が設けられることになりました。
交通事故で人の命を奪ったものには、死刑につぐ重罪である島流しの刑が適用されることになったのです。
参考:島流しになった罪人たちは意外にも島で自由に生活をしていた?
これらの刑罰は、たとえ過失であったとしても交通事故で人を死なせてしまった場合には適用されました。
それほど、江戸の町の交通事故は深刻な問題となっていたということでしょう。
しかし、そういった罰則を設けたにもかかわらず、江戸の町における交通事故は一向に減る気配がなかったために、八代将軍吉宗の時代となる1742年にはさらに重い罰則が適用されることになりました。
交通事故によって人の命を奪ったものは死罪となり、さらに家財を没収されるという非常に厳しい内容のものとなりました。
さらに、事故を起こした当事者だけではなく、荷主に対しても罰金などの刑罰が科せられたようです。
まさに、連帯責任を重んじた江戸時代ならではの罰則ですね。
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