天明の大飢饉

天明の大飢饉と数十万人の餓死者〜人の肉まで食べた!?

天明の大飢饉では飢えのあまり人肉を食べたって本当?

江戸時代には頻繁に飢饉が起こりました。大小合わせると35回も飢饉に見舞われたそうです。

 

その中でも一番ひどかったのが、天明の大飢饉(1782年〜1787年)であるといわれています。

 

天明の大飢饉による餓死者は30万人とも50万人ともいわれ、何も物をたべることができずに大勢の人が亡くなりました。

 

食べるものがなくて飢えに飢えた人の中には、人の肉まで食べた人までいるといわれています。

 

それはいったい真実なのでしょうか?それともただの都市伝説なのでしょうか?

 

想像を絶する天明の大飢饉による死者の数

現代の日本では、どんなに貧しくても餓死というのはあり得ませんが、江戸時代においては多くの人が餓死で亡くなりました。

 

特に全国規模で起こった天明の大飢饉のときの被害は、とても大規模なものでした。

 

1782年に各地で起こった大洪水や関東地方の大地震、1783年の浅間山の噴火などにはじまり、1787年まで続いた天候不順により農作物が壊滅的は被害を受けたのです。

 

天明の大飢饉による餓死者は30万人とも50万人ともいわれていますが、大地震や浅間山の噴火、洪水などで亡くなった人の人数を合わせると、100万人以上の人が亡くなったといわれています。

 

1700年代の日本の人口は2800万人から2900万人であったと推定されていますから、100万人以上の死者というのが真実だとすれば、日本の総人口の3.5%ほどの人が亡くなったことになります。

 

30人に1人が亡くなったことになりますから、その被害の大きさは想像を絶するものであったといえるでしょう。

 

特に東北地方での被害は甚大でした。

 

弘前藩では人口の3分の1が餓死したといわれており、津軽藩でも人口の3割〜4割にあたる8万人が餓死をしたそうです。

 

また、盛岡藩でも死者が6万人にのぼったという記録が残されています。

 

飢えをしのぐために人肉を食べた人もいた!?

天明の大飢饉では、飢えによって多くの人が亡くなりましたが、一部の人たちは飢えをしのぐために餓死をした人の人肉を食べていたといわれています。

 

食べるものがなくて極限まで追い込まれると、人間はそういった行動に走ってしまうのかも知れません。

 

八戸領における天明の大飢饉の様子を記録した「天明卯辰簗(てんめいうたてやな)」に次のような記述が残っています。

 

天明4年にある宿屋に1人の女性が訪ねてきて、次のように言ったそうです。

 

「こちらの家で爺さんが亡くなられたと聞いてやってまいりました。どうか片身とも片股なりともお貸しくださいませんでしょうか?うちの爺さんもせいぜいあと2〜3日かと思われますので、その節にはすぐにお返しに上がりますので」

 

つまり、その宿屋で亡くなった爺さんの、片身でも片股でもいいので譲ってほしいということです。

 

そして、自分の家の爺さんが亡くなったら返しに伺いますという。

 

にわかには信じられないような話ですが、実際にそういった話は江戸の町まで伝わってきていて、のちの杉田玄白が「後見草(のみちぐさ)」の中で、この人を食べた話についてリアルに記述しているようです。

 

さらにこの「後見草」の中には、信じられないような記述もあります。

 

「橋の下で、死骸を切り裂いて股の肉を籠に持っている人がいるので、何にするのかと聞いたら、これに草木の葉をまぜて犬の肉だと偽って売るのだと答えた」

 

これはもう狂気としか言いようのない話ですが、人間は極限まで追いつめられるとこういったあり得ないような行動をおこしてしまうのかも知れません。

 

東北地方で多くの餓死者を出した本当の理由

天明の大飢饉では、東北地方を中心に多くの餓死者を出しましたが、浅間山噴火の影響が大きかった関東地方ではそれほど多くの餓死者を出したという記録は残っていません。

 

実は、東北地方で多くの餓死者を出したのは、天災だけが理由ではなかったようです。

 

東北地方の諸藩は、財政を維持するために大坂や江戸に米をどんどん廻していました。

 

その結果、備蓄米がほとんどなくなってしまい、飢饉が起きた時に対応ができなくなってしまったというのが真相のようです。

 

ある意味人災といえるかも知れません。

 

そんな東北地方の諸藩の中で、松平定信の白河藩では市場の米を買い占めて備蓄をしていたために、それほど被害は大きくならなかったといいます。

 

こういった松平定信の抜け目ない性格が、その後の寛政の改革によって江戸幕府の財政危機を救うことになったのかも知れません。

 

ちなみに松平定信が老中になったのは、天明の大飢饉の最後の年である1787年です。

 

そこから寛政の改革が始まったわけです。

 

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