関所破りは本当に磔の刑にされたのか?〜入鉄砲に出女の真実
江戸時代においては、治安維持のために入鉄砲に出女が厳しく制限されていました。
それをチェックするために、おかれたのがいわゆる関所です。
特に有名なのは箱根の関所で、現在ではこの箱根の関所が復元されて観光名所となっているようです。
江戸に出入りをする人は、必ずこの関所を通る必要があり、もし関所破りをすると磔(はりつけ)の刑にされるということが「御定書」に書かれているようです。
本当に関所破りをすると磔の刑にされたのでしょうか?
江戸幕府はなぜ入鉄砲に出女を禁止したのか?
関所を設けたのは入鉄砲に出女を制限するためですが、それではなぜなのでしょうか?
「入鉄砲」は分かりやすいと思います。飛び道具である鉄砲を江戸の町に持ち込むことを制限することで、治安を維持しようと考えたわけです。
なんらかの理由があって江戸の町に鉄砲を持ち込むためには、老中が発行する「鉄砲手形」を携帯する必要がありました。
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それではなぜ「出女」が制限されたのでしょうか?
実は江戸時代には各地の大名の妻や子供などの家族が、江戸城化の屋敷に強制的に住まされていたのです。
つまり、各地の大名が謀反を起こさないように、家族が人質にされていたわけです。
大名たちは、参勤交代で江戸の屋敷にいったときだけ、妻(正室)や世継ぎの子供と会うことができたわけです。
そんな重要な人質である大名の正室に逃亡されては大変なので、「出女」という形で女性が江戸から出ていくことを関所でチェックしていたわけです。
女性が江戸をでて関所を通過するためには、留守居(るすい)が発行した「女手形」を携帯していなければなりませんでした。
留守居というのは、老中の支配下に置かれた役職で、大奥の取り締まりや通行手形の管理などの業務を主に行っていました。
また、将軍不在のときに、江戸城の留守番役をするという役割も果たしていたようです。
関所破りなんて本当は簡単だった?
関所破りというのは、武力によって強引に関所を突破することだけを指すのではありません。
もちろん、そういった強硬手段で関所破りをするものもいたようですが、関所破りの多くは関所が置かれている街道を通らずに、山道を抜けていきました。
関所には、犯罪人の手配書などが配布されていましたので、お尋ね者が堂々と関所を通過することは困難でした。
そのため、あえて関所のある街道をさけて、暗い夜に山道を抜けていったわけです。
関所が置かれるような街道は限られていましたが、細い山道などはたくさんあったわけで、そういう意味では関所破りはやろうと思えば簡単にできたわけです。
そんなに簡単に出来る関所破りなのに、なぜ発覚してしまうことがあったのでしょうか?
それは、多くの場合は告げ口によるものだったようです。
借家に住むときに紹介状がなかったり、宿に泊まるときの宿帳の記載に不自然な部分があったり、配られている手配書に人相が似ているなどということがあると怪しまれたりしたようです。
しかし、罪人など訳あり人物でなければ、関所破りをしてもあまり問題にはならなかったというのが事実のようです。
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関所破りで本当に磔の刑になることはあるのか?
江戸時代において関所破りは重罪とされ、八代将軍吉宗による御定書百箇条に関所破りは磔とすることが書かれているようです。
磔というのは、江戸時代の刑罰の中でも最も重いものです。
しかし、実際に関所破りで磔の刑になった人の数は、非常に少なかったようです。
お尋ね者の罪人などでもなければ、実際に関所破りをしても極刑になるということはなかったようです。
江戸時代をとおして実際に磔の刑になった人の人数は、わずか5人〜6人だったといわれています。
御定書に書かれた磔の条文は、実際に刑を実行するというよりも重罪をアピールすることで、関所破りの予防効果を狙ったものなのかも知れません。
実際に、関所の近くにある茶屋などでは、抜け道を教えてくれるようなところもあったようです。
仮に運悪く見つかってしまった場合でも、「道に迷ってしまった」という程度の言い逃れで勘弁してくれることも多かったようです。
処罰といってもせいぜい藩外への追放程度で、磔になるなどということは、まずなかったといっていいでしょう。
ちなみに、関所破りの罪で磔になった人物で有名なのは、国定忠治です。
彼の場合には、殺人を犯して指名手配中であったことから、捕まった時点で磔の刑になるのも当然といえば当然でした。
賄賂を渡せば通行手形がなくても関所を通過できた?
いつの時代においても、汚職というのはあるものです。
江戸時代においては田沼意次が有名ですが、下級役人たちも多かれ少なかれそういったことをしていたようです。
関所においても例外ではなく、役人に賄賂を渡すことで通行手形を持たなくても見逃してくれることも多かったようです。
また、関所の近くの茶屋などでそういった知恵を授けてくれることもあったようです。
とはいえ、手配書が回っているお尋ね者などが、賄賂を支払って堂々と通過できるほど関所は甘くなかったようです。
あくまで融通が利いたのは、通行手形を持たない一般の旅人ということになります。
また「出女」の関係から女性が関所を通過する際には徹底的に検査をされることが多く、場合によっては裸にされて調べられることもあったために、手形があってもあえて賄賂を払って通させてもらう女性も多かったようです。
賄賂といっても露骨にやるのではなく、近くの宿屋とグルになっていたりしたようです。
宿屋にお金を払って保証人になってもらい、その宿屋の女中という形で通行させてもらっていたわけです。
江戸時代に賄賂のやり取りをしていたのは、越後屋と悪代官だけではなかったのです。
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