江戸の裏長屋の生活

江戸の裏長屋では四畳半の部屋で家族4人が普通に生活をしていた

江戸の裏長屋では隣人どうしが家族同然の生活をしていた

現代においてワンルームマンションといいますと、独身者がなんとか暮らせる狭い生活スペースというイメージがあるかと思います。

 

しかし、江戸の長屋は現代のワンルームマンションよりもはるかに狭く、主に独身者が住んでいた裏長屋では、居間兼寝室のスペースがわずか四畳半居間兼寝室のスペースがわずか四畳半ほどしかありませんでした。

 

もちろん独身者ばかりではなく、そんなせまい裏長屋に家族4人が生活するなどということも当たり前でした。

 

ここでは、江戸の長屋での生活の実態を見ていくことにしましょう。

 

実質四畳ほどのスペースで生活をしていた

江戸の裏長屋というは、通りに面した商いを営む人向けの表長屋(表店)に対して、その裏側に建てられ長屋のことです。

 

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裏長屋の広さは、間口が9尺(2.7m)で奥行きが2間(1.8メートル)というのが一般的な大きさでした。

 

部屋全体の大きさとしては6畳相当になりますが、土間や台所なども含めてその大きさですから、居間兼寝室となる部分は4畳半ほどしかありませんでした。

 

しかも、押し入れなどの収納スペースなどもまったくありませんから、現代のワンルームマンションなどとくらべてもかなり狭いということが想像できるかと思います。

 

昼間は4畳半のスペースを居間として使い、そこで内職や食事などをしていました。

 

夜になると、こんどはそこに布団を敷いて寝室に早変わりするわけです。

 

押し入れなどの収納スペースはありませんから、布団を部屋の隅に重ねて畳んでおくことになりますので、実質的な生活スペースは4畳ほどしかなかったことになります。

 

隣人の声が筒抜けだったプラバシーのない生活空間

江戸の町は非常に火事が多かったために、長屋はかなりの安普請で作られていたようです。

 

柱は細く、隣の部屋との仕切りも薄い壁1枚のみなので、隣に住む人の声などはほとんど筒抜け状態でした。

 

隣の住民に用事があるときは、わざわざ外に出なくても壁をトントンと叩いて「味噌を貸してくれねぇか〜」などとそのまま会話をすることができたようです。

 

もちろん夫婦喧嘩や夜の秘め事などの声も筒抜けで、プライバシーなどというものはほとんどありませんでした。

 

江戸の町ではそういったことを気にする人はなく、隣近所の人たちがまさに家族同然で生活を送っていたわけです。

 

隣にどんな人が住んでいるのかさえよくわからない現代人と違い、たとえ一人暮らしであったとしても、江戸の長屋の住民が孤独感を感じるということはまったくなかったに違いありません。

 

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長屋の家賃はどれくらいだったのでしょうか?

現代人には想像もできないほど狭かった江戸の裏長屋ですが、家賃はどれくらいだったのでしょうか?

 

標準的な大きさである間口が9尺で奥行きが2間の裏長屋で、400文から600文というのが標準的な家賃であったようです。

 

現代の貨幣価値になおすと、8000円〜12000円といったところでしょうか。

 

雨漏りのするようなオンボロ長屋になりますと、200文(4000円)程度の部屋もあったようです。

 

確かに狭い裏長屋ではありますが、大都市である江戸の中心部にある賃貸住宅の家賃としては、とてもリーズナブルであったといえるでしょう。

もちろん江戸の長屋は9尺2間のタイプばかりではありません。

 

大工などの高給を取る職人は、4畳半が二間ある広い長屋に住んでいたようです。

 

そういった長屋の場合は家賃もそれなりに高く、1000文(2万円)程度になったようです。

 

それでも、現代の賃貸住宅と比較するとかなり安いといえるでしょう。

 

しかも、江戸の長屋には上下水道が完備していたのですが、それらはすべて無料で使うことができました。

 

長屋の大家が親も同然といわれた本当の理由

江戸時代には「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」といわれていました。

 

大家というのは、現代では賃貸物件のオーナーを指しますが、江戸時代の大家は意味合いが違いました。

 

実質オーナーにあたる「地主」がいて、大家は地主にやとわれたいわゆる管理人で「家主」と呼ばれました。

 

大家は、自分も長屋の木戸脇に住んで、店子のさまざまな相談事に乗ってあげたりしたようです。

 

現代でいうとことの区役所の窓口的な業務まで行っていたようです。

 

そして、店子がおかしなことをしないように、常に観察をしていました。

 

といいますのも、自分が管理している長屋から罪人がでると大家は悲惨なことになったからです。

 

江戸時代には連座制というものがあって、身内が罪人となるとその家族まで処罰されることが多かったのですが、実は身内ばかりではなく長屋の大家にまでその連座制が適用されたのです。

 

軽くても罰金か所払い(江戸より追放)、重罪になると手鎖や遠島になることもあったようです。

 

血のつながりのない赤の他人の犯罪によって、まったく関係のない自分までが処罰を受けたのではたまったものではありません。

 

大家が店子のいろいろな相談事を積極的に受けていたのは、自分の長屋からそういった罪人が出ないように監視をするためでもあったわけです。

 

こういったことから江戸の長屋の大家は、まさに親も同然だったわけです。

 

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