有名な赤穂浪士の「討ち入りそば」は後世の人の作り話
赤穂浪士は元禄15年の12月14日に、両国にあるそば屋の2階に集合して、そばを肴に酒を飲み交わしたあと、吉良邸に討ち入りに向かったとされています。
しかし、どうやらこれは真実ではなさそうです。
なぜなら、元禄時代にはいわゆる「そば屋」というものがなかったからです。
仮にそば屋があったとしても、その2階に47人もの大人数が深夜に集合するなどとは考えにくいことです。
いったいなぜ赤穂浪士はそば屋に集合したあとに討ち入りに行ったことになってしまったのでしょうか?
元禄時代にはそば屋という名称の店はなかった
もちろん、赤穂浪士が討ち入りを行った元禄時代にも、そばという食べ物そのものはありました。
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江戸時代以前からありましたし、メニューとしてそばを出すお店もありました。
しかし、いわゆる「そば屋」という名称の看板を掲げているお店はなかったのです。
「そば屋」という看板を掲げたお店が登場したのは、厳密には享保年間以降とされています。
元禄時代の江戸の町には、そば屋ではなく「けんどん屋」という「うどん」を出す店がたくさんありました。
「けんどん」というのは、欲張りでケチという意味になるのですが、うどんを1人前ずつに盛って売っていたので「けんどん屋」といわれるようになったそうです。
集合したのはそば屋でなく同士の家だった?
赤穂浪士のメンバーで、吉良邸に討ち入ったあと引き上げ途中で姿を消した寺坂吉衛門が残した文章のなかに「集合場所は同士である堀部安兵衛宅、杉野十平次宅、前原伊助宅の三ヵ所で、堀部邸では宴会が催され、その後時間をもてあました数人だけがそばをすすった」と書かれています。
また、同じく寺坂吉衛門が残した文章のなかには「両国にある亀田屋という茶屋に立ち寄った」ということも書かれています。
そば屋ではなく茶屋で、しかも集合したのではなく立ち寄ったということです。
どうやらこれが真実のようです。
後世の人によって書かれたいくつかの書物に、討ち入り前にそば屋に立ち寄ったとの記述があるために、そちらの方の話が有名になってしまったのでしょう。
そばに関連する言葉に「手打ちそば」とか「そば切り」「そばを打つ」といったものがあります。
「手打ち」とか「切り」とか「打つ」などと、いかにも討ち入り前にぴったりの言葉と結びつきます。
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後世の人が、この討ち入り事件を語るときにいかにも語呂がいいので、そば屋に集合をしてそばを食べたあとに討ち入りに向かったということになってしまったのでしょう。
これが赤穂浪士にまつわる有名な「討ち入りそば」の真相といっていいでしょう。
江戸時代の「手打ちそば」の本当の意味とは?
「手打ちそば」という言葉が、討ち入り前に食べるたべものとして語呂がいいのはわかりますが、そもそも江戸時代においては、そばは手で打つのが当たり前なのに、なぜ「手打ちそば」という言葉が存在したのでしょうか?
現代で「手打ちそば」といえば、機械を使わない手作りのそばという意味に使われます。
しかし、江戸時代にはそもそも「そばを作る機械」などというものがありませんから、基本的にはすべて「手打ちそば」になってしまうはずです。
一説によると、「つなぎ」を使わずにそば粉のみで作られた品質の高いそばを「手打ちそば」と呼んでいたとのことです。
江戸の町といえば「二八そば」が有名ですが、これはそば粉が8割に対してつなぎとしての小麦粉が2割混ざっているので二八そばと呼ばれたといわれています。
そうした、小麦粉の混ざった品質の低い二八そばと差別化するために、そば粉のみで作られた品質の高いものを「手打ちそば」と呼んでいたようです。
同じ「手打ちそば」でも、江戸時代と現代とではまったく意味が違うということですね。
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