江戸幕府では5つのセリフが言えればバカ殿でも政治ができた
よく「神輿は軽い方がいい」といわれます。
上に立つものがあまりにも切れ者だったりすると、周りにいる人間、つまり神輿を担ぐ人が苦労をすることになるからです。
徳川歴代将軍の中にバカ殿がいたかどうかはともかく、実際に江戸幕府の政治は、たとえバカ殿が将軍職の座にあったとしてもまったく問題なく運営できるようなシステムになっていたようです。
それはいったいどのようなシステムだったのでしょうか?
将軍はたった5つの言葉だけで政治を行えた!?
江戸時幕府の政治における将軍の役割は、ほとんど儀式化しており、実際に将軍の口から出る言葉は5つだけで済んだそうです。
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それは「それへ」「近う(ちこう)」「よきに計らえ」「そうせい」「大儀」の5つです。
家来が殿様に会うときには、最初から同じ部屋に入ることは許されていませんでした。
そこで、まずはじめに隣の部屋から将軍に挨拶をするわけです。
すると将軍は決まり文句である「それへ」「近う」というセリフを言うわけです。
意味としては「隣の部屋からでは話が聞こえにくいから、もっと近くに来なさい」といったところです。
それに対して家来は、かしこまって「ははぁ〜」とお辞儀をして、前に進むふりをするのです。
ここで注意をしなければいけないのが「近う」を真に受けて、本当に将軍の近くに寄ってはいけません。
あくまでも前に進むふりだけをするのです。
そのことで「あまりに恐れ多くて近くに進むことは出来ません」という態度を将軍に示すわけです。
結局、隣の部屋から遠く離れた状態で家来は話をするわけですが、距離が遠いためにほとんど話は聞こえません。
しかし、それでもまったく問題はなかったのです。
実際には将軍は話を聞く必要はまったくなかった
家来と将軍の間には、側用人や老中といった側近が控えており、家来から聞いた話を要約して将軍に伝えたのです。
何でこんな面倒なことをするのかといえば、将軍と一般の侍が直接話をしてはいけないという決まりになっていたからです。
しかも、こうした家来の報告や相談事に対しては、事前に老中や御三家たちの間で話をまとめてしまっていることがほとんどのため、聞こえなくてもまったく問題がなかったわけです。
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そして、話の内容がどんな内容であれ、将軍は重役たちが相談して取り決めをしたことに対して、形式的了承をすればよかったのです。
その了承のときのセリフが「よきに計らえ」「そうせい」だったわけです。
そして、最後に家来に対して慰労の言葉である「大儀」でしめくくるわけです。
つまり、この「それへ」「近う(ちこう)」「よきに計らえ」「そうせい」「大儀」という5つのセリフを、順番を間違えずにいうことさえできれば、どんなバカ殿でも幼少の将軍であっても政治を行えたということになります。
直接将軍に会えない家来たちの滑稽な風習
ちなみに、江戸幕府では同じ家来の中でも直接会うことが出来る人は限られていました。
会うことの出来る家来を「お目見え以上」といい、会うことの出来ない家来は「お目見え以下」と呼ばれました。
いわゆる旗本より上の家来が「お目見え以上」であり御家人より下の位の家来は「お目見え以下」だったわけです。
お目見え以下の家来がどうしても殿様に報告しなければならないことがあるときには、座敷にあげることはせずに、庭から地面に膝をついて報告をしました。
これは、殿様がお目見え以下の家来と会ったという事実を認めないための儀式であり、あくまでも家来が庭でひとり言をいっているのをたまたま通りかかった殿様が耳にしたという形にするわけです。
なんとも滑稽なしきたりであるといえます。
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